小説ー15 ニムロッド・クラブ解散

ニムロッド・クラブ解散
連載第15回  1866年(2)


 フィリップは、『アシーニアム』誌を閉じた。
 あれから、三十年が過ぎた。
 ロバート・シーマーが亡くなって、その数年後にフィリップは警察を退職した。同時にロンドンを離れオクスフォードに居を移したのだった。こちらでは、学校の臨時教員という職を得て糊口をしのいでいる。その教員職も来年には定年を迎えるのである。
 長い月日が経った。
 『リテラ・ゴディカ』紙に、ロバート・シーマーの死に関する記事が掲載されたのは、その年の八月だったと記憶している。書いたのはもちろんイザベラ・スミスである。挿絵画家ロバート・シーマーの自殺には、『ピクウィック・ペイパーズ』を巡って、ディケンズとの確執があることをほのめかす内容だった。
 しかし、ディケンズが『ピクウィック・ペイパーズ』によって、一躍、流行作家に昇りつめたこともあってか、その記事は比較的穏やかな論調に終始した。イザベラは、【誰も咎め立てしないように】という、シーマーの遺志を尊重したのだ。
 その後、『ピクウィック・ペイパーズ』の起原を巡る経緯は何度か話題になった。それらは、ほとんどが、シーマー夫人によるものだった。1855年頃だったか、『ピクウィック・ペイパーズ』は夫ロバート・シーマーの創作であるものだという手記を発表した。
 そこへもってきて、今度は息子が、『アシーニアム』誌上で、同じようなことを言い出した。遺族の気持ちは十分に理解できる。フィリップも三十年前には、関係者から聞き取った結果、夫人や息子たちと同じような気持ちになったものだ。
 その当時は、はっきりと確信したわけではなかったが、三十年経って気付かされたことがある。
 それは、小説と挿絵の力関係の変化である。
 挿絵が先にあって、それに文章を付ける時代は終わった。今や、先に小説があって、それに挿絵を描く時代になったのである。作家が小説を書き、挿絵画家は送られてくる原稿に従って挿絵を描くだけだ。挿絵付きの小説は小説家の作品であり、その本文に挿絵画家が口を挟む余地はなくなった。
 フィリップは疑問に思ったのだ。
 ロバート・シーマーが、意にそぐわない挿絵を描くことになったからといって死を選ぶしか道がなかったのだろうかと。
 だが、その当時、すでに、小説と挿絵の立場が逆転しつつあった。
 挿絵画家ロバート・シーマーは、その潮流の変化に巻き込まれてしまったのだ。
 ロバート・シーマーが挿絵を描いた『ピクウィック・ペイパーズ』第一号と第二号は五百部くらいしか売れなかった。ところが、彼に代わって、ハブロ・ブラウンが挿絵を描くようになってから売れ行きが伸びた。サム・ウエラーが登場したこともあり、最終的には一万部にも達したそうだ。その後、ディケンズは『オリバー・ツイスト』などを著して、イギリスを代表する作家になった。


 実は、ディケンズの周辺では、このような見解の相違、あるいは、諍い事が、しばしば起こっていた。これらの話は、フィリップがイザベラ・スミスから得た情報、あるいは、ロンドンに出掛けた際に聞いたものである。
 その中でも、巷間知れ渡っているのは、挿絵画家のクルックシャンクが、ディケンズの『オリバー・ツイスト』は自分の発案で執筆されたというものだ。さすがにこれは、老境に達したクルックシャンクの世迷い言として片付けられた。
 当のディケンズも、クルックシャンクの言い分は全く無視して無言を通した。
 これに対し、ディケンズは、ロバート・シーマーの遺族の申し立てには、いちいち反論をしたのである。自説を裏付けるために、出版社のエドワード・チャップマンを証人として用意しているという噂もあった。これをみても、『ピクウィック・ペイパーズ』を出版した起原については、ロバート・シーマーの関与があったことを、ディケンズ自身も認めざるを得なかったのであろう。


 また、ディケンズは売れっ子作家になったのち、同じ時期に八本もの小説を引き受けてしまい、そのうちの数本の執筆をキャンセルしたとも報じられた。
 さらに、ディケンズの矛先は、挿絵の世界だけでなく、大文字のアート、すなわち、美術界にも及んだ。
 ジョン・エバレット・ミレーが1850年に描いた『両親の家のキリスト』に対し、ディケンズは、「幼子イエスの姿はみっともない赤毛の少年だ」とか「母マリアはフランスの最底辺のキャバレーかイギリスの安酒場にいそうなほど醜い」と酷評したのだった。
 このディケンズの辛辣な批評はたちどころに大騒動になり、ロイヤルアカデミーに展示されていた『両親の家のキリスト』を、ヴィクトリア女王が観覧に訪れるほどだった。ミレーは、その当時はラファエル前派に属していた。『両親の家のキリスト』は、これまでの伝統を打ち破って写実的かつ克明に描いた革新的な作品だった。
 ディケンズがおこなった『両親の家のキリスト』への酷評に対しては、美術評論家のジョン・ラスキンがミレーを擁護するキャンペーンをおこなった。このとき、ラスキンを支持する論陣を張ったのが、イザベラ・スミスであった。イザベラは『リテラ・ゴディカ』紙で数度に亘ってラスキンの論文を掲載したのだった。
 その後、イザベラ・スミスは、『リテラ・ゴディカ』紙の副社長兼編集長になった。
 彼女の従姉妹、姪などの女性たちはさまざまな分野で活動をしている。その一人、バーバラ・ボディソンは画家としてラファエル前派の仲間に加わり、さらに、女性の権利を高める活動にも参加している。クリミア戦争で負傷兵を看護したフローレンス・ナイチンゲールは、バーバラ・ボディソンの従姉妹である。


 もう一人、フィリップが出会ったマーク・レモンのことも忘れてはいけない。
 マーク・レモンはフィリップが警察に勤めていた1836年ごろ、新しい雑誌を出したいと言っていた。彼は、ロバート・シーマーをその雑誌の挿絵画家の候補者にしていた。シーマーの死によって雑誌の発刊は延期になり、数年後、1841年、マーク・レモンとヘンリー・メイヒューによって『パンチ』誌が創刊された。以後、『パンチ』はイギリスを代表するコミック雑誌になり、1866年現在までも続いている。
 この『パンチ』に挿絵を描いたのが、リチャード・ドイル、通称、デッキィーである。デッキィーは創刊時のメンバーではないが、『パンチ』の主要な挿絵画家として表紙のデザインも手掛けた。
 リチャード・ドイルは、かつて三十年前、フィリップが釣りに訪れた湖で出会った風俗漫画家ジョン・ドイルの息子なのである。そのとき、釣りをしている傍らで、熱心に花を見ていた五歳くらいの男の子がいた。その子は、リチャードの弟で、チャールズ・ドイルという名前だった。チャールズ・ドイルはスコットランドの役所に勤める一方、素人画家として作品を描いていた。だが、チャールズ・ドイルはアルコール依存症になり、精神を病んで療養施設に入った。療養施設の一室に籠って、妖精の絵ばかり描いているとのことだ。彼には子供のころからずっと、そして今でも妖精が見えるのだ。
 チャールズ・ドイルには息子がいて、その子は、母方の叔父の名をもらい、アーサー・コナン・ドイルと名付けられたそうである。
 フィリップは、この話をイザベラ・スミスから聞いた。



ニムロッド・クラブ解散 終わり


最期までお読みいただきありがとうございました。



後書き


「ニムロッド・クラブ解散」をお読みいただきありがとうございました。
 この作品は、実際にあった出来事、実在の人物に、私が創作した架空の人物を織り交ぜて書きました。実在の人物は、ロバート・シーマー、マーク・レモン、ヘンリー・メイヒュー、チャールズ・ディケンズ、エドワード・チャップマン、ウイリアム・ホール、ジョン・ドイルなどです。
 私が創作した登場人物は、フィリップ・ストック、イザベラ・スミス、ワトソンです。


 参考文献
 ・「ヴィクトリア朝挿絵画家列伝」谷田博幸(図書出版社)
 ・「ラファエル前派の世界」齊藤貴子 (東京書籍)
 ・「ヴィクトリア朝万華鏡」高橋裕子 高橋達史 (新潮社)
 ・「この御し難き人間の業」 青木理(成城大学リポジトリ)
(1)ディケンズと出版社たちとの闘争
(2)ピクウィック・ペイパーズ誕生とシーマー論争


 特に、「ヴィクトリア朝挿絵画家列伝」には大変お世話になりました。同書は学術的研究を分かりやすく書いた概説書です。シーマーの自殺の経緯はもちろん、当時の挿絵画家の置かれた状況、また、ロバート・シーマーの遺書、ディケンズの書簡などは、この本から引用させていただきました。