小説ー12 ニムロッド・クラブ解散

ニムロッド・クラブ解散
連載第12回  *5*の2


 フィリップとイザベラ・スミスがチャップマン&ホール出版社に出向いたのは五月の第一週だった。
 ワトソンが警察の副署長に掛け合って、報告書を書くための追加調査という名目で出版社との面談の許可をもらった。だが、シーマーの一件はすでに自殺ということで処理されているので、捜査や尋問にならないよう配慮しなければならない。ワトソンが同行しないのはそのためだ。彼が同席したら机を叩くぐらいではすまないだろう。そんなことをしたら、出版社の弁護士に訴えられる。
 前日、フィリップはワトソンと聞き取り調査の打ち合わせをした。
 フィリップやイザベラが知りたいのは、第一に、『ピクウィック・ペイパーズ』の出版に至るまでの経緯、次に、四月十七日にディケンズ、出版社の二人、シーマーでどのような話し合いがもたれたかである。十七日の会合の内容は、ディケンズの手紙で、おおよその見当はつくが、やはり、当事者に確かめるのは重要だ。
 しかし、シーマーは遺書に、【誰も咎め立てしないように】と書き残してあった。故人の意思は尊重するべきだ。ワトソンもそこは同じ考えだった。
 最後にワトソンは、これは犯人捜しではないんだと言った。


 フィリップはチャップマン&ホール社に向かった。イザベラ・スミスとは出版社のビルの前で落ち合う手筈になっている。出版社には、『リテラ・ゴディカ』の編集部から取材を申し込んであった。
 フィリップは慣れないことで朝から緊張していた。
 通りの角にあるビルの前が騒然としていた。行列ができていて、数人の巡査が交通整理をしていた。その中にワトソンの姿もあった。ワトソンはフィリップに気が付くと、すぐに走ってきた。
「風変わりな集会を開いているんだ。資産管理会社が預かった資産を分配する、それも、髪の赤い連中だけに配るという話さ」
 そう言われてみると、ビルの前にいるのは揃って赤毛の人たちだった。我先きにと中へ入ろうとするのを係員が制している。
「一番立派な赤毛の者は他の人より余計にもらえるらしい。それでああやって押しかけてきたってわけだ。行列の中に顔見知りの質屋の親父がいた」
「店番はいいんですかね、その質屋」
「新しく雇った店員に店番を任したそうだ」
「私が見ても、何か怪しい集会のようにも思えます」
「ああ、事件の匂いがするな。交通整理だけではすまない状況だ」
「そういえば、フールスカップが品切れでした」
「何だ、フールスカップとは」
「統計用紙です。先日、注文したのですが、品切れでまだ届いていません」
「それが、赤毛の連中と関係あるのか」
「いえ・・・とくに関係はありません」
 フィリップは、手のひらをズボンに擦り付けた。
「チャップマン&ホール社に行くので緊張気味です。騒ぎを見たので尚更です」
「そんなことでは先が思いやられるな。わしだったら、腕づくでも白状させてみせるんだがな」
 ワトソンは調査目的だということを忘れている。一緒に行ったら大変なことになるところだった。


 チャップマン&ホール社はストランド通りに面したビルにあった。
 先に到着したイザベラがビルの前で待っていた。
「この建物だというのがすぐに分りましたか」
「ええ。来る途中で行列があって騒いでましたね。あのビルでなくてよかったわ」
「赤毛の人に資産を分配しているそうですよ」
「そのようですね・・・そうだ、チャールズ君の姿がありましたよ」
 イザベラは湖畔で出会ったジョン・ドイルの息子チャールズを見たと言った。
「赤毛の人が大勢集まっているのが子供心に面白かったのでしょう」
 フィリップが出版社のビルに入ろうとすると、イザベラが引き留めた。
「今日はよろしくお願いします。新米記者なので、こういう取材は経験がないんです。フィリップさんだけが頼りですわ」
「任せてください」
 とは言ったものの、フィリップには確たる自信がない。
 取材に臨むに当たって質問事項などを確認した。
 イザベラが訊きたいのは、『ピクウィック・ペイパーズ』出版の経緯と、四月十七日の会合の内容である。もう一つ、『臨終の道化役者』の件もある。シーマーの自殺の原因にまで踏み込むようなことはできるだけ避けたい。
 それからビルに入った。
 出版社はエドワード・チャップマンとウイリアム・ホールの二人が共同経営している。会社の中は紙とインクの匂いがした。飾り棚には製本した本が並べられ、部屋の隅に木箱が積まれている。これから発送する本であろう。
 フィリップたちは低いソファに腰を下ろした。バネがギシギシと軋んだ。
 初めに、イザベラ・スミスは『リテラ・ゴディカ』紙の新聞記者だと名乗り、フィリップは警察の書記であると身分を明かした。
「今日は、ロバート・シーマー氏の一件で取材にお伺いしました」
 イザベラが改めて訪問の目的を伝えた。
「シーマー氏のことはまことに残念でした」
「新聞で見て驚きました」
 出版社の二人が口々に言う。
「私が見たのは『タイムズ』紙ですが、自殺の原因は一時的な精神錯乱であると書かれてあったようです」
 チャップマンがイザベラとフィリップを交互に見た。
「警察の調べではそのような発表でしたね、フィリップさん」
 イザベラが言うと、それをフィリップが引き継いだ。
「そうです。すでに自殺ということで結論が出ています。疑いの余地はありません」
 それに続けてフィリップは、四月二十日当日の様子を話した。
 現場には同僚の巡査が一番乗りした。外から侵入した形跡も、誰かと争った様子もなかったので自殺と判断した。その後、自分も現場に駆け付け、仕事部屋を調べたことなどである
「私がお邪魔しているのは、詳しい報告書を書くための追加調査です」
 警察の書記フィリップが同席することについては異論は出なかった。
 イザベラはノートを取り出して取材を開始した。
「幾つかお訊ねしたいことがあります」
 そこでフィリップを見ると、彼も小脇に置いた鞄からノートと鉛筆を取り出していた。イザベラがそっと視線を送ると彼も頷いて返した。それでやっと落ち着いた。
「では、本題に入ります。最初は『ピクウィック・ペイパーズ』の発行に関してです。この本はこちらで発行したものですね」
「ええ、当社が発行しました。四月に出したのは分冊形式の第一号です」
「私は第一号を買い求めました」
「私もです。シーマーさんの挿絵があったのでね」
 二人がそう言うと、チャップマンは愛想笑いをした。フィリップもイザベラも出版社のお客である。
「シーマーさんの最新作であり、同時に遺作になった本です。どのような経過を経て出版したのでしょうか。お聞かせ願えませんか」
 イザベラが『ピクウィック・ペイパーズ』発行の経緯を訊ねた。今回の取材の要件の一つだ。
 それに答えて、チャップマンとホールの二人が、『ピクウィック・ペイパーズ』が出版されるまでのあらましを語った。
 昨年、1835年の十一月のことだ。チャップマン&ホール社は、ロバート・シーマーに自社で出版する小冊子に挿絵を依頼していた。その出来を見るために、チャップマンがイズリントンの自宅にシーマーを訪ねた。頼んだ版画は満足できる仕上がりだった。
 その際シーマーは、今度は、釣りや狩猟で失敗をしでかす男たちを描いた挿絵集を出したいと抱負を述べた。
 チャップマンとホールは、改めてシーマーを出版社に招いて会合を持った。シーマーはすでに、釣りをテーマにした幾つかの下絵の習作を描いていた。下絵を見た二人は、それなら、挿絵に文章を付けたらどうかと提案した。シーマーは当初は乗り気でなかったが、最終的には文章を載せることに同意した。
 この時点で、純粋な挿絵集ではなくなったとしても、文章の付いた挿絵集という当初の構想で進められたのである。
 挿絵に文章を書く作家として、ウィリアム・クラークが有力候補だった。『三つの料理とデザート』で知られた作家で、この本にはクルックシャンクが挿絵を描いた。だが、クラークは多忙で返事がもらえなかった。その後、何人かの候補者の名が挙がったが決め手がなく、翌年まで持ち越されたのだった。
 そこで目を付けたのが新人のディケンズである。ディケンズはもともと新聞記者をしていて、その縁で、チャップマン&ホール社に出入りしていたホワイトヘッドという男が推薦したのだ。
「なるほど、そういう事情があったのですか」
 イザベラ・スミスはいったん筆記を止めた。
 出版社の話から、挿絵集に文章を付けようとしたことが明らかになった。
「シーマーさんが出版しようとしていた挿絵集は、【ニムロッド・クラブ】という題名ではありませんでしたか」
 イザベラが【ニムロッド・クラブ】の名を出すと、出版社の二人は一様に驚いた様子を見せた。そこまで知っているとは思わなかったのだろう。
「挿絵集に文章を付けることになった。そこまでは分かりました。今のお話しですと、【ニムロッド・クラブ】に文章を付けたのが、『ピクウィック・ペイパーズ』になったのかどうか、そこがよく理解できません」
 イザベラ・スミスはそう言って身を乗り出した。
「『ピクウィック・ペイパーズ』は挿絵集というよりは、小説に挿絵を入れた形になっていますね。これはどうしてでしょう」
 この質問にはウイリアム・ホールが答えた。
「確かに『ピクウィック・ペイパーズ』はディケンズ氏の小説といえます。その経過はいささか複雑でして・・・なにしろ、ディケンズ氏は知名度がない。まだ無名です。推薦があっただけで執筆者に決定するのは心配でした。そこで我々は今年の二月、シーマーさんをここへ招いたんです。その席で、ディケンズ氏が書いた『ボズのスケッチ集』を渡して、この作家で良いかと訊ねました。シーマーさんはそれを家に持ち帰り、友人たちに見せたということです」
 シーマーがディケンズの著作を事前に見ていたというのは、フィリップもイザベラも初めて接する情報である。
「シーマーさんは、別の仕事が舞い込んだので、それを引き受けると、当分はその仕事に掛かりきりになりそうだと言っていました。そこで、我々はディケンズ氏に依頼する話を急いで進めたんです。報酬として月に14ポンドという約束もしました」
「14ポンドですって! 信じられないわ、そんなに出してくれるなんて」
 イザベラ・スミスがのけ反った。一介の新聞記者には夢のような金額だ。
 ウイリアム・ホールは苦笑いした。
「私はチャールズ・ディケンズ氏のもとを訪ねました」
「ホールさんがディケンズ氏の家に行ったのですか・・・確か、ファニーヒルズ・インでしたね」
「そうです、よくご存じで」
 新聞記者のイザベラが、ディケンズの家の場所も承知していたので、またしてもチャップマンが驚いた。
 イザベラは、無名に等しいディケンズのもとに出版社の方から赴くのは合点がいかなかった。それも、毎月14ポンドもの報酬が手に入るのである。出版社に来てもらうのが常識だろう。
 ウイリアム・ホールは、
「ディケンズ氏の住まい、ファニーヒルズ・インへ行きました。そこで、シーマーの挿絵集に文章を付ける話をしました・・・」
 と、話し始めた。


☆ フールスカップには、道化師の帽子という意味があります。