小説ー14 ニムロッド・クラブ解散

ニムロッド・クラブ解散
連載第14回  *5*の4


 出版社の二人が、四月二十日におこなわれた会合の様子を語った。


 ***
 ディケンズは結婚を期にファニーヒルズ・インの自宅近くに新居を借りていた。
 重厚そうな家具に囲まれた部屋。中には真新しい家具も見える。その会食は、さながらディケンズの独演会であった。彼は身振り手振りを交えて陽気に語る。シーマーは終始俯き、出版社の二人はハラハラした。
< シーマーさんとはこれが初対面ですな。私の小説に挿絵を描いていただいて光栄です >
 シーマーは苦虫を噛み潰した。小説に挿絵を描いたのではない、挿絵に文章を付けてもらいたいと頼んだのだ。
< 今回は結婚や引っ越しやらで忙しくて、『臨終の道化役者』を挿入しましたが、これは傑作中の傑作です。読者が喜ぶのは間違いない、太鼓判を押しますよ >
 ディケンズは自信たっぷりだ。話し出すとその勢いは止まらない。
< 第三号、第四号の話をしましょう。ウオードル氏はご存じですな。彼には二人の娘がいるんですが、これがコロコロ太った体形で・・・ >
 シーマーは、ウオードル氏の名を聞くのは初めてだった。ディケンズはいったい何の話をしているだろうか。
< ウオードル氏の令嬢が金を持っているのに目を付けたのがジングル氏です。しかし、その企みに気が付いたピクウィック氏は、サム・ウエラーを伴ってジングル氏を追いかけるという展開になります。これは愉快だ、そうではありませんか >
 チャップマンがお世辞笑いする。
 どうやら、ディケンズは『ピクウィック・ペイパーズ』の続きを話しているらしいとシーマーは気付く。
< サム・ウエラーには大活躍をしてもらいますよ。もしかしたら、ピクウィック氏よりも人気が出るかもしれませんな >
 そこへディケンズの夫人、キャスリーンが料理を運んできた。
< シーマーさんでいらっしゃいますね。この度は、主人の小説に挿絵を描いていただき、ありがとうございます >
 新婚の彼女は無邪気である。彼女に罪はない。
 そもそも、自分の挿絵集なのであって、ディケンズの小説ではない。だが、シーマーは夫人の顔を見られなかった。まして、夫人の言葉を訂正することなど出来ようはずもない。
< これからは、挿絵に本文を付けるのではなく、本文から挿絵が生まれるようになる。つまりは、小説が主体になるんです。『ピクウィック・ペイパーズ』は、時代を先取りしているんですよ >
 挿絵が小説に従属しているなら、自分とディケンズの関係も同じなのだろうか。二年前と同じことだ。またしても年下の若者にしてやられた。
 それでも、やっとの思いで訊ねた。
< ピクウィック氏はいつになったら釣りに行くんですか >
 ディケンズは怪訝そうな表情をする。
< 釣り? いや、釣りには行きませんよ。ピクウィック氏もサム・ウエラーも、誰も釣りはしないんです。もちろん狩猟もやりません。私は釣りには興味がありませんからな。読者も釣りや狩猟は期待していない。そもそも、出版社のお二人とは初めからそういう約束だったでしょう >
 その続きはシーマーの耳には届かなかった。
 できることなら、この席を立って今すぐに帰りたい。帰って何をしようか。『臨終の道化役者』のエッチングを完成させるのだろう。
 それでおしまいにする。こんなことがいつまでも続くのには耐えられない。何もかもおしまいにしよう。
 臨終の道化役者、それは・・・自分のことだ。
 シーマーは泣き笑いするだけだった。
 ***


「ディケンズ氏は明るい性質です」と、ウイリアム・ホールが繰り返した。
「ただ、彼の場合は、いささか直情的というか、決めたことはすぐ実行しないと気が済まないところもあるように見受けられます。その点、シーマーさんは対照的に物静かで、口数も少なく、神経質と言いますか、やや暗い面も持っていました」
 シーマーは、ディケンズに丸め込まれ、挿絵について言いたいことがあっても口を出せなかった。出版社の二人がディケンズの味方をしていると感じたのだろう。一対三では、ますます責められていると思ったに違いない。
 ウイリアム・ホールは、
「ディケンズ氏が挿絵の下絵に注文を付けたのはこれが初めてではないんです」
 と言った。
 第一号でスラマー軍医が手を振り上げた挿絵の、手の形状を描き直して欲しいとディケンズが注文を付けた。最初、シーマーは拳を握った形に描いたのだが、これを、ディケンズ氏の要望で、手を開いた形に修正した。
 フィリップは、仕事部屋で見たスラマー軍医の挿絵の下絵と、版画になった作品とを比較して、その違いに気付いていた。そこには、このような事情が隠されていた。すでに、第一号から、挿絵画家と小説家との間にはぎくしゃくしたものがあったのだ。
 フィリップは、それまで抱いていた疑問が少し解けたような気がした。
 出版社の二人の話で、ディケンズがシーマーに挿絵を描き改めさせたことが判明した。挿絵画家の描いた挿絵に、作家が修正を求めたのである。しかも、新人作家が、著名な挿絵画家に要求した。
 作家の発言力が挿絵画家よりも上回ったことになるのだ。
「小説家が挿絵画家に注文を付けて挿絵を描き直させた、そういうことなんですね」
 チャップマンとホールは否定も肯定もしなかった。
「ここまでのお話しでは、『ピクウィック・ペイパーズ』第一号が出版される前に、シーマーさん、ディケンズ氏、それに、あなた方お二人、合せて四人で集まったことはなかったようですが、そうなんですか」
 イザベラ・スミスが訊ねた。
「ありませんでした」
 チャップマンがそう答えた。
「本が出るまでに四人で集まっていれば良かった。そう思います」
 『ピクウィック・ペイパーズ』第一号が出版されるまで全員が一堂に会しての会合は持たなかったのである。これでは意思の疎通を欠いたと言わざるを得ない。
 沈黙が支配した。
 イザベラはひたすら鉛筆を滑らせている。
 フィリップは『ピクウィック・ペイパーズ』第二号を開き、『臨終の道化役者』の挿絵を見た。
 出版社の二人はこう言った。
 シーマーの描いた下絵では、臨終の道化役者は嫌悪感を抱かせるような表情に描かれていた。ディケンズは、それを、もう少し穏やかにして欲しいと注文を付け、両脇の男女も若く見えるように描いてもらいたいと要求した。
 では、シーマーは、実際にはどのように修正したのか。
「私はシーマーさんの仕事場で『臨終の道化役者』下絵と、完成した銅版画の両方を見ました。そのときは、下絵の描線と彫版された線で比べたので、両者の違いがよく分かりませんでした」
 フィリップは何を言いたいのだろうか。イザベラは『臨終の道化役者』の挿絵のページを開いて彼の言葉を待った。
「下絵について言うと、ペンで描かれた下絵では、ベッドに伏した道化役者は病いのせいでやつれた表情でした。それが、刷り上がった第二号の挿絵を見ると、死の床の道化役者は、下絵よりもさらに恐ろしい形相になっているのです。顔の表情は、少しも和らいでいるようには見えません」
 フィリップが『ピクウィック・ペイパーズ』第二号に掲載された『臨終の道化役者』の挿絵を示した。
「下絵よりも完成した版画の方が怖い顔ですか・・・」
 イザベラは下絵を見ていないので判断が付かず、挿絵のページを食い入るように見つめている。
「言われてみると、第二号に載った道化役者の顔は怖い」
 チャップマンとホールも、その変化に気付いた。
「ディケンズ氏の要求に従って、両脇に立つ二人の男女は見た目にも若く修正されました。ですが、シーマーさんは、道化役者を、死に瀕し、恐怖に怯えた表情に描いています。というよりは、恐ろしい形相に描き直しているのです」
『ピクウィック・ペイパーズ』第二号は、明日には書店の店頭に並ぶ。恐ろしい形相をした『臨終の道化役者』の挿絵を載せたままで・・・
 ロバート・シーマーはディケンズの要望を受け入れたように思わせて、最終的にはそれを撥ねつけた。
 それは、シーマーのささやかな抵抗だった。『臨終の道化役者』は挿絵による遺書だったのだ。
 十八日の夕方にシーマー家の家政婦が聞いた「ダメだ」とは、道化役者の顔を、もっと恐ろしい形相に描き直すのだという意味だった。『これではダメだ、もっと恐ろしく描かなければ』だったのだ。
「『臨終の道化役者』は悲劇です。シーマーさんが描いた、臨終の道化役者は、何かを訴えているかのようだ。道化役者の死の間際であると同時に、彼自身の死の間際に・・・」
 フィリップがそう言うと、イザベラ・スミスが顔を覆った。


 そこで出版社の二人に対する取材は終わりとなった。
 挿絵集から小説への変更、四人での会合、並びに、『臨終の道化役者』が挿入された経緯が明らかになった。
 そして、ロバート・シーマーの自殺には、チャールズ・ディケンズとの一連の確執が関係していることが濃厚になった。
「今日はお忙しいところお時間を取っていただき、ありがとうございます。貴重なお話を聞かせていただきまして感謝しております」
 イザベラ・スミスがフィリップと出版社の二人にお礼を述べた。
 二人は出版社のビルを後にした。イザベラは新聞社に戻るという。
「イザベラさんは今の話をどのように記事にしますか」
「そうですね・・・出版社の二人だけでは一方的になってしまいます。シーマー夫人、そして、ディケンズ氏にも面会するのが必要ですわ」
「だが、シーマー夫人はまだ悲しみに呉れているでしょう。ディケンズに会うのも見合わせるべきです。今はその時期ではないと思います」
「はい。記事にするには時間が掛かるかもしれませんが・・・必ず」
 イザベラ・スミスが空を見上げた。
「私は【ニムロッド・クラブ】の特派員です」


 フィリップはチャップマン&ホール社からの帰途、警察署には寄らず自宅へ戻った。
 疲れていたので、居間の固い椅子に倒れるように座った。
 チャップマン&ホール社への聞き取り調査を整理してみた。
 狩猟クラブの【ニムロッド・クラブ】は、ディケンズによって『ピクウィック・ペイパーズ』になった。挿絵集が小説に姿を変えたのだ。しかも、結婚準備を理由に、狩猟クラブとは無縁の『臨終の道化役者』が挿入されることになり、さらに、その挿絵に修正を求められた。自分が思うような挿絵を描くことができず、シーマーは苦悩に陥った。それが、シーマーの自殺の引き金になった。
 もう一つの原因も考えられる。
 それは、シーマーと、年下の編集者、年下のディケンズとの確執だ。
 若いディケンズによって、またしても、『フィガロ・イン・ロンドン』と、同じ轍を踏むことになったのである。十歳以上も年下の若者に振り回されて反論すらできなかった。何と不甲斐ないことかと自分を呪ったであろう。
 しかし、それでも挿絵は描かなくてはならない。十八、十九日、彼はどんな思いで下絵を描き、エッチングを彫り続けたのだろうか。
 挿絵を仕上げたシーマーの目に、壁に掛った猟銃が・・・


 フィリップは出張用の小型鞄を開けた。出版社で聞き取った事柄を整理しておこうと思った。そのとき、鞄の中に丸めた紙が入っているのに気が付いた。ロバート・シーマーの仕事場にあった紙片だった。版画制作のスケジュールが書かれていたものだ。家政婦が戻ってきたので慌てて筆記用具を鞄に入れた。そのときに紛れ込んでしまったらしい。
 折を見て返しに行かないといけない。
 フィリップはその紙を広げた。
【三月二十八日=『ピクウィック・ペイパーズ』第二号『臨終の道化役者』原稿受け取る。四月五日=下絵送付。十四日=書簡届く】
 これで終わりではなかった。まだ続きがあった。
 紙を広げると、その最終行にはこう書かれてあった。
【四月二十日 ニムロッド・クラブ解散】


☆ 本日もお読みいただきありがとうございました。次回にて終了です。