小説-6 ニムロッド・クラブ解散

ニムロッド・クラブ解散


連載第6回  *3*の1


 四月十七日、肌寒い日曜日のことだった。フィリップ・ストックは久し振りに午後の散歩に出かけた。休日の散歩中でも仕事のことは頭から離れない。記録係の一人が長期欠勤しているので、なにもかもフィリップがやらなければならなかった。備品の調達もその一つだ。インク、吸い取り紙とブロッター、それに、統計用紙も残りが少なくなった。明日、まとめて注文することにした。
 フィリップは頭を切り替えた。
 そういえば、シーマーの新刊本はどうなったのだろうか。『ピクウィック・ペイパーズ』は月刊、分冊方式だから、次号は五月に出るはずだ。確実に手に入れるために書店に予約しておこう。
 マーク・レモンという居酒屋の店主も気になる存在だった。居酒屋に来る客から、様々な情報が集まってくるのだろう。今度、彼が経営している居酒屋に行ってみるとしよう、などと思った。
 新聞記者のイザベラ・スミスもいた。彼女の担当は家庭欄だというから、警察勤めのフィリップでは役に立つことはなさそうだ・・・
 そんなことを考えながら歩いていると、向こうからやってくる男性を見てフィリップは立ち止まった。
 ロバート・シーマーだった。
 これまでにも何度か見かけてはいたが、声を掛けることはしなかった。シーマーはいつも腕を組んで暗い表情をしていた。
 それが、今日はこれまでになく思い詰めた様子である。肩を落とし、心なしか足を引きずっている。声を掛けるのを躊躇うどころではない。見たこともない陰鬱さで、彼の周囲だけ黒い霧に覆われているのではないかと思われた。身体の具合が悪いのか、それとも、家庭や仕事上の悩みを抱えているのだろうか。
 挿絵の構想を練っているのかもしれないが、あの様子ではそれもうまく進んでいないようだ。
 シーマーはフィリップには気付くことなくトボトボと歩いていった。フィリップは振り返った。そして、小さく背中を丸めたシーマーの後ろ姿が見えなくなるまでその場から動けなかった。


 エレンはシーマー家の家政婦である。
 四月二十日、この日もいつも通りにシーマー家に向かった。エレンは朝が早い。
 エレンにとってシーマー家の家政婦という仕事に就けたのはありがたいことだった。シーマー夫人はどちらかというと鷹揚な方で、こまごまとした用事を言い付けられることはないし、子供も手がかからない。
 この家のご主人、ロバート・シーマー氏は近寄りがたい存在だった。気難しく、神経質なタイプである。それも、挿絵画家の先生だからであろうと思うことにしている。挿絵画家の仕事は、最初、紙に下絵を描き、それを薬品を塗った銅の板に書き写し、金属ペンで彫る。銅のプレートに彫るのはとても細かい作業だ。その間は家族でも絶対に仕事部屋に入らないようにしていた。
 仕事は順調とみえて、去年の十一月、そして、つい最近も本を出したばかりだった。そのうちの一冊は『ユーモラスなスケッチ集』という題名だった。ご主人は性格は気難しいが、題名でも分かる通り滑稽な挿絵を描く。
 ところが、ここ数日、ご主人のシーマー氏は明らかに様子が違っていた。
 エレンは十七日の日曜は休みをもらった。休み明けの十八日、シーマー氏は朝から仕事部屋に籠って、遅い時間に昼食を摂りに現れた。エレンはそのときのシーマー氏の姿を見て驚いた。目が窪み、生気が抜けたようだったのだ。食事中もしきりに肩を叩いたり、指先を伸ばしていた。かなり細かい作業に打ち込んでいるのだろう。そそくさと食事をすませると、また仕事部屋に戻っていった。帰り際、仕事場から「ああ、ダメだ」という声が聞こえた。版画が満足のいく仕上がりでなかったようだ。
 そして、昨日は、昼も食堂に姿を見せなかった。
 思い返せば、シーマー氏は土曜日からどことなく思い詰めたような感じだった。日曜は家政婦の仕事は休みで、十八日に来てみるとさらに深刻な様子だった。十七日の日曜に何かあったに違いない。夫人と喧嘩をしたのだろうかと思ったが、どうもそうではなさそうだ。
 今日はどうだろうか。案外、昨日のうちに挿絵の仕事を片付けて、釣りに出かけるとでも言い出すかもしれない。
 エレンはシーマー家に着き、裏の勝手口から入った。ここの鍵は預かっている。火を熾して朝の準備に取り掛かろうと鍋を手に取った瞬間、ドンという鈍い音が響いた。
 銃声のようだった。


 十九日の夜、ワトソンは警察署の宿直当番に当たっていた。ワトソンは部下の若い巡査と署内で一夜を明かした。
 このところ、ロンドン市内では子供の犯罪が増えていた。たいていは盗み、強盗の類だ。盛り場で酔っ払いの懐を狙うのである。子供はすばしこくて逃げ足が速い。最近はお腹に肉が付き過ぎたせいか、子供に逃げられてばかりだった。
 昨夜は盛り場を巡回した巡査が浮浪者を保護してきただけで、これといって事件は起こらなかった。もう一人の巡査と交代で仮眠をとることができた。宿直明けは、出勤してきた署員と引継ぎをすれば家に帰れる。あと二時間ほどで全員の顔が揃うだろう。
 部下の巡査がコーヒーを淹れようと立ち上がったときだった。玄関のベルが鳴り、ドンドンとノックする音が聞こえた。ワトソンがドアを開けると若い男が飛び込んできた。
「ああ、あの、大変です、猟銃で」
「撃たれたのか」
「違うんです、お父さんが、早く呼んで来いと言ったんです」
「落ち着け」
 慌てているので話が混乱しているが、どうやら、この男の父親が誤って猟銃で自分を撃ったらしい。
「分った。撃ったのは君のお父さんだな、どんな怪我なんだ? 」
 若者は激しく首を振った。
「隣の人が・・・今朝早く、銃で胸を撃って倒れたんです」
 胸を撃って倒れた? 猟銃の発砲事件、それも自殺だと思った。
 ワトソンは若い男から事件のあった家の住所を聞き出した。部下に命じて書き取らせる。現場は歩いて行ける距離だ。
 ワトソンは部下の巡査に、
「一人でいい、お前はここで待機しろ。もうじき署員が出てくるから、その住所の家まで、二、三人応援を寄こしてくれ」
 と、指示を出した。
 トップハットを被り、ドアノブに手を掛けて振り向いた。
「監察医官も頼むんだぞ」


 フィリップが出勤すると署内がざわついていた。早朝に銃の発砲事件があり、ワトソンをはじめ五、六人の巡査が現場に向かったとのことだった。
 十時過ぎ、ワトソンが署に戻ってきた。
 ワトソンは書記の執務室に入るなり、
「自分で胸を撃ち抜いていた。猟銃でね」
 と言った。
 猟銃による自殺事件だった。
「奥さんに泣きつかれて弱った。子供はまだ小さくて学校に行くか行かない年頃だ」
「自殺ですか。お気の毒に」
「即死だったが、詳しいことは監察医官に任せてきた」
 ワトソンは封筒を取り出した。
「遺書がある。念のため、証拠として写しを作ってくれないか。午後に返却に行く」
 フィリップは便箋を広げ遺書を書き写す作業に取り掛かった。
「死んだのは、ロバート・シーマーという画家らしい」
「えっ・・・」
 ロバート・シーマーが死んだ? それも猟銃で胸を撃った?
 フィリップは受け取った封筒を落としそうになった。
「知り合いか」
「ええ・・・」
「辛い仕事を押し付けちまったな。誰かに代わってもらおう」
「これは私が」
 ロバート・シーマーの遺書と聞いては、他の職員に任せるわけにはいかないと思った。フィリップはいつもの書類作成のときと同じように作業を始めた。
 シーマーの遺書にはこう書かれてあった。


【親愛にして最愛の妻へーーーあなたは私にとってつねに最も良い妻でありました。言っておきますが、誰かを咎めだてしようなどと考えないように。結局、私が弱かったのです。誰かが私にとって悪意に満ちた敵であったとは思いません。法律に触れるような罪を犯したわけではありませんが、私は死に、人生に別れを告げようと思います。無駄だとは思いますが、私は神に平安を祈ります】


 フィリップは遺書を読み終えて大きくため息をついた。文字に乱れはない。死に臨んで心は固く決まっていたのだろう。
 それから遺書を書き写した。
 書き終えてまたため息をつく。
「自殺である可能性が高いのですか」
 冷静なつもりだったが、フィリップは言わずもがなのことを訊いてしまった。やはり動揺は隠せない。
「間違いないだろうな、その遺書を読めば明らかだ」
「この遺書からは、無念の思いが伝わってくるようです。遺書の中の、誰かを咎めだてしないようにとか、誰かが私にとって悪意に満ちた敵であったとは思いません、という件りが気になります」
「わしもそう思う。それが誰だか、家族が読めば思い当たるんじゃないかな」
「亡くなったシーマーさんの本を買ったんです。彼の挿絵の入った本です。今月初めのことでした」
「それが遺作になったってわけか」
「そうですね・・・いえ、今、出ているのは第一号で、来月にも出るはずです」
「だけど、本人が亡くなったとあっては挿絵は描けないだろう」
「その点は・・・」
 と、考えを巡らせる。
「すでに掲載する挿絵は描き終えているのではないかと思います。『ピクウィック・ペイパーズ』という本なのですが、シーマーさんの描いた挿絵に、後から作家が文章を付けている形式だと思います」
 ワトソンが懐中時計を見た。遺書を返却に行く時間が迫っている。
「遺書を返しに行くのなら、同行させてもらうわけにはいかないでしょうか。お悔やみの気持ちを伝えたいし・・・」
「構わんよ」
 ワトソンはフィリップの頼みを承諾してくれた。それから、朝から何も食べていないのでコーヒーでも飲んでくると言って部屋を出ていった。フィリップはさらに別の便箋にシーマーの遺書を書き写した。控えに持っておこうと思ったのだ。
 遺書を読み返した。
【誰かを咎めだてしようなどとは考えないように】という件り、これは誰を指すのであろうか。
 最後に見かけた日の、シーマーの打ちひしがれた様子が思い出される。家庭内の問題か、あるいは仕事上の悩みを抱えていたとしたら・・・それらが自殺の引き金になったことは想像に難くない。


☆ 本日もお読みいただきありがとうございました。