小説ー5 ニムロッド・クラブ解散

ニムロッド・クラブ解散


連載第5回  *2*の2


 書店をあとにしたフィリップはイザベラ・スミスと肩を並べて歩いた。
「フィリップさんはどう思いますか、この本」
「これが【ニムロッド・クラブ】なのでしょうか。狩猟クラブの話のようだから、その点では合っているのですが、挿絵集でなく小説ですね」
「シーマーさんは、春になったら挿絵集を出すと言っていましたもの。だから、きっとこれですよ。私、楽しみにしてたんです。家に帰ってさっそく読みますわ」
 そんな会話をしながら歩いていると、
「すみません、ちょっとよろしいですかな」
 フィリップが振り向くと、書店で本を見ていた男が立っていた。男は大きなお腹を揺すりズボンを持ち上げた。
「お呼び止めして失礼」
「私にご用ですか、それとも、こちらの女性に・・・」
 二人のうち、どちらに用があるのかと思ってイザベラを見ると、彼女はフィリップの背中に隠れた。その男が怖いのだ。
「わしは、マーク・レモンといいます」
 マークがポケットから折り畳んだ紙を取り出した。『シェイクスピアズ・ヘッド』という店の広告だった。ウィスキーの樽の絵が描かれている。
「居酒屋をやっております」
 マーク・レモンは居酒屋の店主だった。
「ちょっとお尋ねしたいことがあるんですわ・・・ええと」
「フィリップ・ストックです」
「どうか怪しい奴だと思わんでください」
 外見はいかにも不審者であるが人は良さそうだ。この太った体形に悪人はいない。
「あなたは挿絵画家のロバート・シーマー氏とお知り合いなのですか。いえ、先ほど書店で耳にしましたので」
「その件でしたか・・・」
 フィリップは湖で釣りをしていたときに声を掛けたところ、それが挿絵画家のロバート・シーマーだったことを話した。
「というわけで、会って話をしたのは一度だけです。親しい仲というほどではありません」
「シーマー氏が挿絵集を出版することをご存じの様子でしたな」
「釣りや狩猟をテーマにした挿絵集を出す予定があるということでした」
「そうですか。実は、わしは居酒屋の傍ら、芝居の台本を書いていましてね。作家の仲間が集まって、新しいコミック雑誌を出そうということになったんです」
 マーク・レモンによれば、今のところは雑誌の名前も含めて、詳細は何も決まっていないということだ。
「そこで、新しい雑誌の挿絵を誰に頼むかという相談になりました」
 フィリップを呼び止めたのはこれが本題だったようだ。
「シーマー氏に挿絵を描いてくれるよう頼みに伺おうと思っております。ですが、シーマー氏は忙しそうだ。そのうえ、挿絵集を出版しようという計画があるそうじゃないですか」
「シーマーさんの挿絵集は【ニムロッド・クラブ】という題名で、釣りや狩猟で失敗ばかりするストーリーだそうです」
「ふむ、【ニムロッド・クラブ】ですか」
「書店でこの本を買ったのですが、【ニムロッド・クラブ】ではないようです。シーマーさんは挿絵だけで文章は付けないと言っていましたから」
 フィリップが『ピクウィック・ペイパーズ』を見せた。
「月刊分冊か・・・連載を抱えているのでは忙しいんでしょうなあ」
 マークは額に手を当てた。


 フィリップは、
「こちらからもお尋ねしてよろしいでしょうか」
 と切り出した。
「ここに文章を付けているボズという作家、本名はディケンズというらしいのですが、マークさんはディケンズをご存じですか」
「ディケンズねえ・・・聞いたことがありません」
 マーク・レモンはズボンを持ち上げ、せり出したお腹をパンと叩いた。
 フィリップは、芝居の台本を書いているのだからディケンズを知っていると思ったのだが当てが外れた。
「わしの居酒屋には出版人やら批評家が大勢来ますが、ディケンズの名前は出たことがないと思います」
 そのとき、フィリップの背中に隠れていたイザベラ・スミスが飛び出した。
「たった今思い出しました。チャールズ・ディケンズ氏のことを。彼は『モーニング・クロニカル』の記者をしていますわ」
 イザベラは、ディケンズは他社の新聞記者であると言った。同業者だったのだ。
「ですけど、小説を書いていることまでは聞いていません」
 そう言ってまたフィリップの背中に逃げ込んだ。
 ロバート・シーマーの挿絵に文章を付けたディケンズが、新聞記者をしながら作家活動もおこなっている人物だと分かった。
 マーク・レモンが、挿絵は幾つ入っているかと訊いた。フィリップが中を確認すると挿絵は四点だった。
「四点ですか。それでは、挿絵に文章を付けたのではなくて、小説に挿絵を入れた格好ですな」
 マークは小説に挿絵を入れたのではないかと言った。
「パラパラと読んだだけですが、内容は狩猟クラブの話です。これは第一号で、続きがあるみたいです」
「これから毎月一冊ずつ出す月刊分冊でしょうな。その本はお幾らでしたか」
 フィリップが「1シリング」と答えると、マーク・レモンは「べらぼうに安い」と両手を広げた。
「分冊形式なら一冊の値段を安くできる。それに、読者の期待を次の号へと引き付けられるし、反応も見られる」
「反応? 」
「第一号を出してみて、読者の評判が思わしくなければ、次号で面白そうなストーリーに変えればいいんです」
「なるほど」
 この点に関してはマークの話は説得力がある。
「ところで、そちらの方は? 」
 マーク・レモンがイザベラを見た。頭の上からつま先までじっと観察していたが、
「男性のようにお見受けしますが、それとも、女性でいらっしゃいますかな」
 と尋ねた。
「もちろん、女性です。私が男性に見えますか・・・?」
 そう言ってイザベラは口元を押さえた。女性か男性か問われ、矛盾した返答をしてしまったと気付いた。男性に伍して仕事をするために乗馬ズボンとジャケットを着ているのだが、いざとなると、つい本音が出た。
 フィリップはマークと顔を見合わせて苦笑した。
「何よ、二人とも」
 イザベラがふくれっ面をした。
「私は新聞記者です。こんな格好でもしないと甘く見られますわ」
「こりゃあ、恐れ入った」
 マーク・レモンは「居酒屋でお持ちしております」と言って立ち去った。


「行っちゃいましてね、マーク・レモンさん」
 マーク・レモンの姿が見えなくなったのでイザベラ・スミスが胸をなでおろした。
「居酒屋をやっているとのことでした」
「私は居酒屋には入ったことがありませんわ、もともと、お酒が飲めない性質ですので」
「ディケンズが何者なのか判明したのは、イザベラさんのお手柄ですよ」
 イザベラ・スミスがニコリとした。
「そこまではよかったのですけど、マークさんに服装を指摘されて、何だかとんちんかんな返答をしてしまいましたわ。男性に負けないよう、こういう服を着ているのですが、まだ自覚が足りません」
 イザベラはズボンを叩き、上着の襟をビシッと引っ張った。
「そうでした・・・フィリップさんはどこにお勤めなんでしょうか。まだ伺っていませんでした」
「私はイズリントン管区の警察署の書記、記録係です」
「警察! 」
 大きく目を見開いた。
「あなたならば歓迎しますよ。書記の執務室をお見せしましょう。それとも、取調室にご案内しましょうか」
「いえ、結構です。私は凶悪事件の担当ではありません。料理や掃除などの家庭向けの記事を書いていますので」


 その夜、フィリップは『ピクウィック・ペイパーズ』をじっくりと読んだ。
 第一号は二つの章から成り立っていた。
 第一章のストーリーは、狩猟クラブが結成され、会合でピクウィック氏が演説をおこなうというものである。メンバーには、タップマン氏、ウインクル氏などがいる。ウインクル氏は狩猟家であると紹介されていた。シーマーによる挿絵は、鹿の頭部の剥製が飾られた部屋で、ピクウィック氏が椅子に乗って演説をしている姿が描かれていた。床には釣り竿と猟銃も置かれていて、いかにも狩猟クラブの雰囲気が出ている。
 ところが、第二章になるとロチェスターへ旅行に行く話になった。しかも、パーティーの会場でクラブのメンバーが女性を誘うという話だ。新たにジングル氏やスラマー軍医が登場して、女性を張り合うのである。釣りや狩猟とは無縁の、女性を巡るロマンス物語が展開されている。これでは、シーマーが言っていた釣りや狩猟で失敗するストーリーではなくなってきた。
 四番目の挿絵は、階段の下にいるスラマー軍医が、ステップに足を掛けた人物に手を振り上げている構図だった。伸ばした手は指を五本とも広げている。フィリップが気になったのは、この第四図にはシーマーのサインが書かれていないことだった。
『ピクウィック・ペイパーズ』は挿絵集ではなく小説の形式をとっている。やはり、これは、シーマーが出版しようと考えていた挿絵集、【ニムロッド・クラブ】ではなかったのだろうか。