連載ー15 美人画廊



 美人画廊 15話 第二章(3)ー1


 *今回と次回は世紀末絵画に関する考察が続きます。


 新堀画廊ではラファエル前派の版画を展示するために大幅な入れ替えをおこなった。
『魔法にかけられるマーリン』『プロセルピナ』などに加え、バーン=ジョーンズの『眠り姫』四点、ロセッティの『ベアタ・ベアトリクス』、ミレーの『オフィーリア』、レイトンの『燃える六月』などの版画が新たに掛けられた。
『ベアタ・ベアトリクス』は恍惚とした女性の半身像で、ロセッティが亡くなった妻リジーと、ダンテの恋人ベアトリーチェを重ね合わせて描いたものである。エリザベス・シダルことリジーは精神を病み、死の間際にはアルコールと鎮痛剤のアヘンに頼る日々だった。『ベアタ・ベアトリクス』はまさに薬物によって恍惚としたリジーである。
 ミレーの『オフィーリア』はシェイクスピアの戯曲に基づいている。川に身を投げ、流れついてきたオフィーリアの姿である。
『燃える六月』は薄く透き通るような衣装を纏った女性が眠っている絵である。左腕を枕にし、曲げた長い脚を正面に向けている大胆な構図だ。これは銅版画のエッチング技法で、色は付けられていない白黒の画面である。画集で見ると、女性が着ている服は鮮やかなオレンジ色だった。
 バーン=ジョーンズの『眠り姫』と合わせて見ると、いずれも眠りに落ちるか、あるいは命を失うかした女性が目を閉じ恍惚としている。
 女性の表情はあくまでもエロティックで官能的だ。
 これに加えて、『ロイヤル・アカデミー展の招待日(1881年)』という版画も展示された。これはフリスという画家の手によるもので、展覧会の会場を舞台に、そこに集う観客たちが大勢描かれている。新堀画廊にあるのは、いわゆる複製版画である。
 社長の孝夫によると、フリスはこのような群衆絵画を得意としたそうで、中でも1862年作『駅』は、この絵一点のためだけに展覧会が開かれたほどの大人気であった。
 奈々未は『ロイヤル・アカデミー展の招待日(1881年)』の前に立った。
 アカデミー展覧会の会場の一室、壁一面には絵が掛けられている。現在の美術館であれば、作品は人の目の高さに掛けられるのが普通である。しかし、高いところでは天井付近に、低い方は床すれすれに展示されている。大きさもまちまちである。前面には絵画を鑑賞している人々が五十人ほど描かれていた。
「この絵にはヴィクトリア朝の著名な人が描かれている」孝夫が画面の右端を指した。
 右から二人目はラファエル前派の一人だったミレー、中ほどにはアカデミー会長のレイトン、左の端でカタログに何か書き込んでいるのは小説家のトロロップであるということだ。ミレーはこのころにはラファエル前派を離れてしまっていた。
「真ん中のやや右寄り、シルクハットの男性がいるだろう」
「ええ、背の高い人ね」
「そう、その左肩のあたりにいるのがエレン・テリー」
 ワッツが1864年に描いた椿を愛でる少女像『選択』のモデル、エレン・テリーのことである。当時はまだ十七歳の少女だったが、それから十五年近く経ち、三十歳を迎え、展覧会の会場にいるエレン・テリーはすっかり大人の雰囲気を漂わせている。
「シルクハットの男性、彼はオスカー・ワイルドだ」そう言われて画面をのぞき込む。
 背の高い若い男性がパンフレットを片手に絵の説明をしていて、彼の周囲を美しい女性が取り囲んでいる。
「ワイルドは戯曲家、評論家、そして同性愛者で、ヴィクトリア朝の社会風土では何かと批判されることが多かった。ところが、この絵が描かれた1881年ではまだ目立った著述活動はしていない。ワイルドを登場させたのはフリスの慧眼というべきだ」
 他にも政治家のグラッドストンや詩人のブラウニングなども画中に登場していると言うことである。
 絵画が当時の社会の様相に関連して繋がっていくのは面白いと思った。けれども、だんだん専門的になってきて奈々未は話に付いていけない。
「しかし、現代ではフリスは忘れられた画家になってしまった。印象派とかゴッホ、マチス、それに抽象絵画が台頭してきたからね。このような時代の風俗を描いた絵画は古くなってしまったんだ。そこが残念だね」
 ラファエル前派の絵画を購入していたのは産業革命後に台頭してきた新興の富裕層で、彼らは絵画とともに版権も購入した。複製版画を作らせ、それによって収益を上げたというのである
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 その日の午後には大学で英文学を教えている樋口先生が来た。
 奈々未がコーヒーを運ぶと、雑誌に寄稿する原稿だといって資料を渡された。奈々未にも一緒に聞くようにというのである。
 原稿の下読みと検討会が始まった。


 第一稿目は『テニスン詩集とラファエル前派』という題名だ。ここでは、1857年に刊行された『テニスン詩集』に付けられた挿絵版画を、ラファエル前派の画家が描いた挿絵と他の画家の挿絵を比較している。『テニスン詩集』には全部で五十四点の挿絵が付けられている。いずれも木口木版である。この時代、活版印刷の書物に挿絵を挿入するときには活字の印面と同一平面にするため木版が使用された。
 五十四点の挿絵のうち、ラファエル前派はミレー、ロセッティ、ホルマン・ハントの三人が三十点を描いた。これを他の画家の挿絵と比べるとその違いは一目瞭然である。ラファエル前派の三人の手による挿絵は非常に手が込んでいて、アカデミー系の画家の平凡な挿絵とは一線を画しているのだった。
 たとえば、ミレーの「マリアーナ」は黒い画面に白のドットだけで光と影を表し、悲しみにくれる女性を描き出している。
 ハントの「シャーロットの女」では女性の髪が逆立ち、その髪が挿絵枠の上を覆っている。日々、魔法のタピスリーを織り続けるシャーロットの女は鏡に映った外の世界しか見ることを許されていない。ところがある日、鏡の中にランスロットの姿を見て思わず振り返ってしまう。その瞬間に機織りの糸は宙に舞い、鏡は横にひび割れる。挿絵はまさにその場面である。躍動的で見事な構図だ。
 ロセッティの挿絵は独特で、四角い画面に人物や背景がギュウ詰めに描かれていた。「芸術の殿堂」の挿絵では王冠を頂いた九人の女性が丸くなって集まっている。その中央に男性が横たわっているのだが、奈々未は孝夫に示されてようやく気が付いたのだった。ロセッティは狭い所に何でもかんでも押し込む傾向があった。晩年にはいささか精神を患ったそうだが、若い時からその兆候があったようである。


 第二稿は『ヴィクトリア朝の社会派絵画』についてである。
 原稿資料に掲載された一枚目の絵は、ルーク・ファイルズの『救貧院臨時宿泊所の入所希望者たち』という版画だった。ラファエル前派の美しい絵画とは異なり、かなり悲惨な状況を描いた作品である。
 これは1869年のアート雑誌に掲載された木版画で、のちにファイルズは版画をもとに油彩画を描き、74年のアカデミー展に出品している。
 『救貧院』の版画については樋口先生が原稿を読みながら説明してくれた。
 そこには臨時宿泊所の切符をもらうために警察署の壁際に並ぶ人たちの姿が描かれている。救貧院宿泊所とは今で言えばシェルター、一時的な宿泊所のようなものだ。雪の降る冬の屋外、誰もが寒さに震えている。前景には乳飲み子を抱え、小さな女の子の手を引いた母親がいる。切符を手に入れて入所先へ向かうのだろう。
 産業革命以後、新興ジェントルマン階級がそれまでの貴族と肩を並べるほどに成長したが、その一方で、失業、格差などの社会問題を生み出した。この『救貧院』に描かれたのは、当時のロンドンの庶民の姿、現実でもあった。
 奈々未は横浜の関内にある寿地区を思い出した。
 以前勤めていたイベント会社は石川町にあり、寿町はそこからほど近い。つい最近も、未払いの給料を受け取るために寿地区の一角に足を踏み入れた。路上で酒を酌み交わす人、薄汚れた服で横たわる人、炊き出しに並ぶ人たち・・・寿町の現実は『救貧院』の世界そのものなのである。
 そのときには、吉井孝夫や樋口先生は美しいラファエル前派の絵画に囲まれて、社会の底辺に暮らす人とのことには目もくれないとばかり思っていた。だが、『救貧院』の絵をテーマに取り上げるのだから、まったく興味がないというわけではなさそうだ。