連載ー14 美人画廊

 


 美人画廊 14話 第二章(2)ー2


*クルーズ船の版画入札、台風上陸・・・今回もいろいろあります。


 版画展の二日目、地味なリクルートスーツに合わせて、初日は化粧も控えめだったが、二日目は俄然攻めまくった。鼻筋をくっきりとさせていっそう高く見せ、眉を描き足しアイラインも濃い目にした。
 この程度では詐欺メイクとは言わせない。
 その効果はてきめんだった。
 奈々未は「中華街、デートで行きたいですね」と言って購入を勧めた。それも効かない場合は、「私も部屋に飾ってます。一緒がいいわ」とほほ笑むのである。購入しようかどうか迷っている人の背中をちょっと押してあげるのだ。
 夕方になって水彩画が売れた。しかも二枚とも決まった。合わせて七十万円である。赤レンガ倉庫を描いた水彩画の前で、五十代くらいの男性がしきりに頷いていた。これは買うなと思ったので、その男性に近づいた。
「お客様、いかがですか。私、以前、赤レンガの近くのお店で働いていたことがあるんですよ」
 お店というのは、みなとみらいにあるキャバクラだったのだが、そんなことは知る由もない男性が水彩画の購入を決めた。
 こうして水彩画を売り切った。
 本地画伯もマネージャーも、「新堀画廊で開催してよかった」と興奮気味だった。


 版画展は無事に終了した。終わってみれば、当初の目標を上回る四百五十万円ほどの売り上げがあった。
 準備も大変だったが終了後もさらに忙しかった。
 版画を額装し、購入者に発送する作業が残っていた。作家から版画のシートを預かり、庄司画材店を呼んで額装を依頼した。版画はマットという窓枠の空いた台紙に入れて額縁に収める。たいていは所定の額装でいいのだが、自分好みの装丁を希望した人もいて細かい確認が必要だった。
 奈々未の横顔を描いたスケッチは、新堀画廊のリビングに飾られている。本地隆明画伯がプレゼントしてくれたのだった。
 そして孝夫からは版画展での活躍を認められて二十万円のご褒美をもらった。


 本地隆明画伯の個展は大成功だったが、いいことばかりは続かない。新堀画廊にとって残念な事もあった。


 来年、2020年の五月に、大型のクルーズ船が横浜を皮切りにアジア各地を周遊する予定になっていた。そのクルーズ船の客室やカジノ、バーなどに絵画を飾るのである。その仕事は大手広告代理店が一手に引き受けたのだが、協力会社、下請け会社に対し版画の入札会が行われた。今回は客室数が多く、版画の数もかなり大量に大規模になる。新堀画廊は他の画廊と共同で版画レンタルも手掛けているので入札に応募したのだが、仕事を受注することはできなかった。
 しかも、落札したのが横浜市内にある画廊だったと分り、吉井孝夫はすっかり落胆していた。
 本地隆明の個展では想定外の収益があったのだが、それには奈々未とのツーショット写真が大きく貢献したのは確かだ。画伯が描いた奈々未の横顔のスケッチも効果的だった。社長の孝夫の力というより、むしろ奈々未の魅力で成果をあげたのだ。
 そこへもってきて、クルーズ船の大きな商談を逃してしまい、孝夫はどことなく引け目を感じているように見受けられる。
 奈々未は彼に自信を持ってもらいたいのだが、そのための良い方法が見つからないでいる。


 九月になって台風が関東地方を直撃した。千葉県ではゴルフ練習場のポールが倒れて民家に被害が出たり、鉄塔が倒れて停電が発生した。こんな天候では画廊も通常営業はできずに早く店を閉めざるを得なかった。横浜市内では一時間の降水量が72ミリの大雨ということだった。
 その被害も完全に復旧しない十月、再び大きな台風が接近してきた。十月十二日、台風19号が関東を直撃しようとしていた。
 前日のうちに画廊は休業することになり、奈々未はマンションへは帰らずに画廊に泊まった。マンションの方が安全かもしれないが、一人で過ごすのは怖い。孝夫の側に居る方が心強かった。
 早朝から雨が激しく降り続けている。風も凄まじい。ニュースではしきりに、岐阜県、長野県などで河川の水位が上昇していると報道していた。
 11時ごろ、台風のために避難所が設置されるという連絡が入った。電話をかけてきたのは自治会の防災部長だった。避難を希望する人、とくに一人暮らしの高齢者を避難所となった小学校に連れて行ってもらいたいという指示だった。孝夫は防災部員ではないが、緊急時には避難誘導班を受け持っていたのだ。しかも、この地区で水害によって避難所が開設されるのは初めての経験といってもいい。
 外は断続的に滝のような大雨が降っている。避難する人を車に乗せて避難所へ行くのだが、こんな雨の中で外出するのは危険だとしか思えない。
「孝夫さん、どうしても行くの。だって、雨すごいじゃない」奈々未が心配すると、孝夫は「これも役目だよ」とウインドブレーカーを羽織った。
 玄関で長靴を履きながら、タオルを用意してと言った。奈々未はマンションの部屋を掃除するために100円ショップでタオルと靴下、スリッパを買ってあったのでビニールの袋に入れて渡した。
 奈々未は孝夫の後ろ姿に「早く帰ってきて」と言うのが精いっぱいだった。
 孝夫が避難所へ向かってから雨はいっそう強くなり、庭の芝生の上も雨が流れ出した。地面には浸透できなくなったのだ。これでは周辺の道路も冠水しているに違いない。ますます不安が募るばかりだった。
 それから・・・奈々未はソファに丸まってじっとしていた。テレビでは河川の氾濫を告げていた。


 孝夫が帰って来たのは午後1時過ぎだった。
 ウインドブレーカーの中に着ていたジャージもびっしょり濡れている。
 風呂場で着替えてきた孝夫に抱きついた。
「ああ、良かった、帰ってきてくれて」
 無事な姿を見て思わず涙が出てくる。
「避難所へ行くのは初めてだったけど、案外うまくいった」
 孝夫が受け持ったのは三人だったそうだ。まずコンビニでオニギリとお茶を買い込んだ。地震の時は避難所の食糧を配布するが、台風の場合は、避難者が食べ物を用意することになっている。しかし、今回は急なことで準備が間に合わない。
 それから順番に家を回って三人を乗せ避難所へ向かった。小学校の校庭に車を停めたが、避難所となった体育館まで歩くだけでもずぶ濡れになった。
 ところが、帰りには大雨でワイパーも利かなくなり、道を間違えてしまった。しばらく車を走らせると、マンションの前で雨宿りをしているおばあさんを見つけた。きいてみると避難所へ行きたいが雨が強くて歩けなくなったという。そのおばあさんを乗せて避難所へ戻ったので遅くなってしまったのだ。
「うちの自治会に住んでいる人ではなかったけど、こんな非常時には住所が違うとか言ってられないから避難所まで送り届けた」
「偉いわ、孝夫さん」
 台風や地震、緊急時にはとっさの判断が命を左右する。豪雨の中でも孝夫は冷静に落ち着いて人を助けようとしたである。他の自治会の住人も避難所へ連れて行った。こういう時にこそ人間の本質が現れるのだ。
「タオルと、靴下、それにスリッパがあってよかった。みんな靴の中までびっしょりで、体育館には身体を拭くタオルがなかったから役に立ったよ」
 避難所へ届けたあと、靴下を受け取ったお年寄りから、女性物を用意したことを褒められたそうだ。
「独り者なのにと言われた」
「孝夫さんが独身だって知れ渡っているのね」
 それも美容室の池田さんが言って回っているのだろう。
「で、なんて答えたの」
「いえ、それは・・・つ、つま、いえ、その、つまり」
「『妻』が用意した、そう言ったんでしょ」
「はい、まあ、そんなようなところでした」
 無理矢理に『妻』だと言わせた。
「カッコ良かったよ、孝夫さん。雨の中駆け出して行ったとき、やっぱ男だと思った」
 奈々未が肩を叩くと、孝夫は役目だからと頭を掻いた。
 クルーズ船の入札がうまくいかなくて落ち込んでいたので、これが自信を取り戻すきっかけになってくれればいい。
「靴下とかスリッパとか買っておいたのは・・・マンションの部屋を片付けようと思ったんだけど、孝夫さん、手伝いに来てくれる?」
「いいですよ、休みの日にしましょうか」
「車で来てよ。ダンボールの箱、十個くらいになるから」
「はあ、引っ越しですか」
「今すぐじゃないけどね。奥さんなんだから一緒に住まないと、美容室の池田さんが変に思うわよ」
 押しかけるのはまだ先のことでいい。
「マンションの家賃、もったいないじゃん。八万円するんだもの。その点、二階の部屋はタダでしょう」
 家賃、同棲、家賃、同棲と何度も繰り返し攻め続け、ついに今月からマンションの家賃を孝夫が払うことを認めさせた。