小説ー11 ニムロッド・クラブ解散

ニムロッド・クラブ解散
連載第11回  *5*の1


 『リテラ・ゴディカ』紙のイザベラ・スミスはイズリントン管区の警察署に行った。
 書記のフィリップ・ストックに面会を求めると、廊下で待たされた。イザベラは今日も乗馬ズボンに上着という格好だ。廊下で待つ間、行き交う巡査たちから好奇の目で見られた。
 乳飲み子を抱えた女性が廊下の角を曲がって消えた。彼女の服は薄汚れ、コートはところどころ擦り切れていた。犯罪を犯して逮捕された夫の面会だろうか。あるいは、貧困で警察に助けを求めに来たのだろうか。胸が痛んだ。今度は子供が三人、前後を巡査に挟まれて通り過ぎて行った。三人の子は捕まって警察に連行されてきたようだ。最近、盛り場では子供による犯罪が増えている。たいていはひったくりである。親も貧しく、そういう家庭の子は学校には通わない。記者としては、この現実に目をつぶるわけにはいかない。
 しばらくすると、フィリップがやってきた。
「こんにちは」
「イザベラさん、ようこそ。お待たせして申し訳ありません」
「いえ、お忙しかったんでしょう」
「どのようなご用件でしょうか」
「ロバート・シーマーさんの件です。つい先日、シーマーさんの挿絵が入った本を買ったばかりですので、亡くなったと知ったときは震えが止まりませんでした」
 イザベラはハンカチを取り出して目に当てた。
「私もそうでした。『ピクウィック・ペイパーズ』が出て、間もない時期とあって、衝撃を受けました」
「我が社では、来月号にシーマーさんの訃報記事を掲載予定です。私が取材したいと申し出たところ、最初はダメだと断られました。それでも、二度目には編集長が了解してくれたのです。私は、【ニムロッド・クラブ】という題名まで聞いていましたので、この取材の適任者は自分しかいないと思うんです。シーマーさんは狩猟クラブの挿絵集を出すと張り切っていました。それが、自殺してしまうなんて信じられません」
 イザベラが一気に語った。
「警察では、シーマーさんの件は、一時的な精神錯乱による自殺ということで結論が出ています。事件性はないと判断したので、それ以上の調査も、まして捜査はしていません」
「やっぱり、そうですか」
 イザベラが唇を噛みしめる。
「ですが、シーマーさんが亡くなったのには何か事情がある、私にはそう思えて仕方ありません」
「何かの事情・・・」
「フィリップさんなら、詳しい話が聞けるのではないかと思って伺いました」
 そこでフィリップはあたりを見回した。
「私もイザベラさんと同じことを考えていました」
 イザベラの目が輝いた。
「会議室へご案内しましょう。私たちが調べたことをお話します。ワトソン巡査も呼んだ方がいい」
 それから、フィリップはイザベラを会議室に案内した。会議室とはいっても狭い部屋で、犯人の取り調べにも使われるとのことだった。
 机を挟んで、フィリップとイザベラが向かい合って座り、ワトソンは壁際の椅子に腰かけた。
「こちらは、ワトソン巡査です」
 ワトソンはイザベラを見て、「おっ」とだけ言った。
「イザベラさんは『リテラ・ゴディカ』紙の新聞記者で、今日は、ロバート・シーマーさんの亡くなった件で訪ねてこられたんです」
 フィリップがイザベラを紹介した。
「半年前、釣りに行ったときに出会いました。そのとき、シーマーさんとも会っているんです。ですから、この件に関しては誰よりも適任ですよ」
「よろしくお願いいたします」
「どうぞ、取材を始めてください」
 イザベラはノートを広げ、
「ワトソンさんは現場に駆け付けたんですよね」と、切り出した。
「そうだ。あの日、わしは宿直明けで、そろそろ、家に帰ろうとしていた。そこへ若い男が飛び込んできたんだ。その男は慌てふためいた様子で隣りの人が銃で撃ったと言った」
 ワトソンは、シーマーが自殺した当日に彼の家に出向いたことを語った。
「現場に着いて状況を調べた。応援の署員が来たので、遺書を書き写してもらうため、いったん署に戻った。そうしたら、フィリップがシーマーさんの名前に聞き覚えがあると言うじゃないか」
 フィリップがロバート・シーマーの遺書の写しを読み上げた。
 イザベラはノートを取りながら聞いた。遺書の中の、【誰も咎め立てしないように】という件りは胸に突き刺さる物があった。シーマーの無念さが伝わってくるようだ。
 同僚の記者は、警察は遺書の内容は公開しないと言っていた。その内容を知ることができたのである。予想もしていなかった成果だ。
「それから、私もワトソンに同行してシーマーさんの家に向かいました」
 フィリップも現場に駆け付けたのだった。イザベラは、これは大変な取材になるなと覚悟を決めた。
 ワトソンが続ける。
「家政婦や隣家の住人から当時の様子を聞き取った結果、これは自殺であると判断したわけです。監察医官も同様の意見でした。次に、フィリップとわしはシーマーさんの仕事部屋を調べに行ったんですわ」
「仕事場で、シーマーさんが死の間際まで制作していたエッチングの版画や下絵を発見しました。最後に描いていたのは『臨終の道化役者』の挿絵でした」
「『臨終の道化役者』? 」
 初耳だ。
「それは『ピクウィック・ペイパーズ』の挿絵ですか? 」
 イザベラが訊ねる。
「おそらく、そうだと思います。机の上に手紙がありました。それは、チャールズ・ディケンズ氏からの手紙でした。四月十七日にディケンズ氏がシーマーさんとチャップマン&ホール社を自宅に招いたのです」
「十七日というと日曜日だわ。その日に何人かで集まったのですね。それは『タイムズ』にも載っていなかったと思います。先日伺った我が社の記者からも、その話は聞いていません」
 遺書、『臨終の道化役者』の銅版画。そして、手紙、会合。次から次へと重要な材料を得ることができた。
「ここまで話したのはイザベラさんが初めてです。ディケンズ氏の手紙には、『臨終の道化役者』の下絵に関して、シーマーさんに描き変えるようにとの要求が書かれていました」
「修正要求・・・シーマーさんは実際に描き直したのですか」
 この質問に対して、フィリップは、
「『ピクウィック・ペイパーズ』の第二号を見ないと確実なことは言えません。分冊形式だから間もなく発行されるでしょう」
 と答えた。
「そうなると、四月十七日の会合が気になります。いったい、どのような話し合いがおこなわれたのでしょうか」
「私は・・・十七日にシーマーさんを見かけたんです」
「フィリップさんが? 」
「会合から帰る途中だと思うのですが、彼は沈んだ様子で、肩を落とし、足を引きずっていました」
「それは・・・きっと、何か良くないことがあったのでしょう」
「家政婦さんの話では、シーマーさんは翌十八日はずっと挿絵の制作に没頭していたようです。ところが、どこかうまくいかないことがあったのか、「ダメだ」という声が外まで聞こえたとのことでした。そこで、十九日にエッチング作業をやり直して、翌朝・・・」
 そこまで言うと、イザベラは、「ああ」と悲鳴に近い声をもらした。フィリップはそこで話すのをやめた。
「以上が、これまでに判明していることです」
「ありがとうございます」
 イザベラはお礼を言った。
「遺書や最後の挿絵など、初めて知ることばかりで、頭の中が混乱してしまいました。すぐには整理が付きません」
 フィリップとワトソンは、仕事部屋に残されたエッチング、遺書や手紙の内容までも事細かに教えてくれた。イザベラは、これをどのようにまとめて、記事にしたものかと頭を巡らせた。情報が多すぎて咀嚼できないことばかりだ。
 イザベラは、ヘンリー・メイヒューから仕入れた二年前の一件を話した。シーマーと若い雑誌編集者との揉め事である。すると、フィリップも、マーク・レモンから聞いたと明かした。
「やはり、そうでしたか。『シェイクスピアズ・ヘッド』で別の取材をしていたときに、偶然、フィリップさんをお見掛けしましたわ」
「居酒屋に行くとは、活発なお嬢さんですな」
 ワトソンが感心した様子で言った。
「これでも新聞記者のはしくれです」
 イザベラが胸を張った。
 ワトソンは、
「ディケンズも、その編集者も年下だというところが引っ掛かるな。最近の若い奴は何を考えているか分からん」と唸った。
 イザベラは取材ノートを開いた。
「今のお話しから推測すると、四月十七日のファニーヒルズ・インでの集まりが、重要だと思います。そこで何が話されたのでしょう。せめて、会合に参加した出版社に訊くことができれば・・・」
「そうなるとだ」
 ワトソンが低い声を出した。
「警察の次は、チャップマン&ホール社に行って事情を訊く。そういうことだな、お嬢さん」
「私一人では・・・」
「一人で行くつもりかね。そりゃあ、やめた方がいい」
「では、三人で? 」
 ワトソンが首を振る。
「フィリップとお嬢さん、二人で行くんだな。わしが行ったら取り調べになる。テーブルをひっくり返してもいいって言うんなら別だが」
 チャップマン&ホール社にはフィリップとイザベラが行くことになった。


 イザベラは警察署を出てファニーヒルズ・インへ行った。フィリップの話では、そこにディケンズの住まいがあるということだった。シーマーと出版社の二人がディケンズの家で会合を開いた。どんな家なのか一目見ておきたいと思った。
 だいたいこの辺りだと思うところまではやって来たのだが、詳しい番地までは聞かなかったので通りでうろうろした。
 そこへ花束を抱えたエプロン姿の女性が通りかかった。
「すみません。ディケンズさんのお宅をご存じはないでしょうか」
「あれ、女の人ね。男の子かと思ったわ。その恰好だもの」
 乗馬ズボンを履いているので男性と間違えられた。
「チャールズ・ディケンズさんの住まいを探しているんです。この近くだと聞いてきたのですが、分からなくなってしまって」
「どっちの家? 」
 家は二軒あるらしい。
 その女性によると、チャールズ・ディケンズは、もともとファニーヒルズ・インの13番地に住んでいたのだが、最近になって15番地へ引っ越したそうだ。
「最初は弟と一緒に住んでいたのよ。それが、結婚したでしょう、今月の二日だったわ」
「結婚したんですか」
「そうよ、あんた知らなかったの? そんなわけで、15番地へ新居を構えたのよ」
 チャールズ・ディケンズは四月二日に結婚したのだそうだ。結婚してまだ一か月にもなっていない。
 イザベラはお礼を言って15番地の方へと歩いた。