小説ー10 ニムロッド・クラブ解散

ニムロッド・クラブ解散
連載第10回  *4*の2


 『リテラ・ゴディカ』紙では、美術、とくに、アカデミーの現状と改革についての連載を組むことになった。取材対象者として、イーストレイク、フランシス・グランド、エドワード・ランシアなどの著名な画家の名が挙がった。
 イザベラは取材の補助役を命じられた。
 取材者リストはすでに名の知られた画家ばかりだ。ここに、ジョン・ラスキンを加えるべきではないか。イザベラはさっそく編集長に直談判した。
「ラスキン・・・誰だね、知らんな」
 編集長はけんもほろろだ。
「知らないのは当たり前、まだ学生です。ですが、ジョン・ラスキンは将来、わが国の美術界を背負って立つ逸材なんです」
「逸材? いったい、どんな絵を描いているんだ」
「それが・・・まだ見ていません」
 イザベラは、まだラスキンがどんな絵を描いているのか見たことがなかった。
「それで取材しようって言うのか。呆れて物が言えん。せいぜい先輩記者の手伝いでもすることだな」
 やはり、アシスタント役でしかない。
 編集長が、
「ロバート・シーマーの事だが・・・」
 と、思い出したように言った。
「はい」
「この間、ヘンリー・メイヒューに会ってきたそうだな」
「すいません、編集長には後で言おうと思ってました」
 編集長に無断で行ったことが知られてしまった。イザベラは叱られるのではないかと下を向いた。
「まあ、いい。今回は大目に見よう。実は、メイヒューが気に入ったようなんだ、イザベラのことを」
 ハッとして顔を上げる。
「シーマーの一件、取材を許可しよう」
「本当ですか、ありがとうございます」
「当面は、アカデミーの肖像画家の方をしっかりやることだな。先輩記者に付いて、取材のやり方を学んでこい」」
「はいっ、頑張ります」
 編集長がロバート・シーマーの件で警察に取材することを認めてくれた。ただし、その前にアカデミーの肖像画家の取材をきちんとこなさなければならない。
 行先はロンドン市内の居酒屋だった。取材相手の肖像画家がその店を懇意にしているという情報があったのだ。タッチストーンというその画家は、宮廷画家として知られるエドワード・ランシアの弟子だそうだ。
 居酒屋に突撃取材だ。
 ところが、その居酒屋とは、マーク・レモンが経営する『シェイクスピアズ・ヘッド』だった。マーク・レモンとは一回会っただけだが、熊のような風貌は忘れてはいない。これも何かの縁であろう。彼の太って、髭だらけの顔を思い浮かべると、あまり嬉しくない縁ではあるが。
 それに、イザベラ・スミスは、これまで一度も居酒屋には足を踏み入れたことがなかった。仕事だからやむを得ないが、興味よりは恐怖の方が先に立つ。
 『シェイクスピアズ・ヘッド』の店内に入った。大勢の客でごった返している。男性客ばかりで女性の姿は誰一人として見当たらない。女性はイザベラだけだ。入店したとたんに後悔が走った。本当に、こんな場所にアカデミーで活動する肖像画の画家が来るのかと疑問に思った。
 タッチストーンという画家の名を告げて、彼が来店しているかどうかを訊ねると、店員が店の隅を指差した。テーブルに突っ伏して寝ているのがタッチストーンらしい。その男性が顔を上げた。しかし、赤ら顔でだらしなく口を開け、腕を枕にしていたので左目が腫れている。どう見ても肖像画家には見えなかった。店員に改めて訊いてみると、その男性は、名前は同じタッチストーンだが、市場で働いているとのことだった。人違いもいいところだ。タッチストーンという名の画家は来たことはないと笑われてしまった。
「なーんだ、間違いじゃないですか。だから言ったことじゃないわ」
 よく調べもしないで取材するとは、これではせっかく来た甲斐がないというものだ。それなのに、先輩記者は取材などそっちのけでビールを飲んでいた。どうやら、ビールが本来の目的だったらしい。


 そのとき、店の一角で拍手が沸き起こった。イザベラは近くの店員に何事かと訊ねた。
「ラスキンって男ですよ」
「ラスキン! 」
 思わず声が上ずる。
「まだ学生みたいなんだけど豪勢なもんだ。ああやって、仲間を大勢連れて来る。ワイン業者の息子だそうだよ」
 ジョン・ラスキンに巡り会えたのだ。イザベラの胸は高鳴った。こんな僥倖はまたとあろうか。一度は諦めたジョン・ラスキンへの取材ができる。イザベラは彼がいるテーブルの方を見やった。若い男性に囲まれているのがラスキンであろう。いかにも若々しく、精悍な顔をしている。背はそれほど高くないようだ。
 だが、この大事なときにも先輩記者は相変わらずグラスを放さない。
「先輩、ビールを飲んでる場合じゃありません。取材をしましょう。ラスキンさんに話を聞くんです」
「ラスキン? 知らんぞ、そんなのは。タッチストーンはどこにいるんだ」
「その人は来ていません。それより、ラスキンさんですよ。あそこのテーブルを見てください。話を聞くチャンスですってば」
「それより、もう一杯お代わりだ。これも記者の修行さ」
 取材のやり方を学ぼうと思っていたのに、先輩の記者は取材にかこつけてこれ幸いと飲んでばかりだ。こんなことでは当てにならない。
 イザベラは断固決意してラスキンのいるテーブルに近づいた。しかし、学生仲間と見られる数人の男が彼の周囲をガッチリ取り巻いている。小柄なイザベラには人の背中が高い壁のように見えた。
「ラスキンさん・・・あっひ」
 誰かの背中に弾き飛ばされてイザベラは悲鳴を上げた。それでも怯むことなく、もう一度アタックした。
「現在の美術界に関して一言お願いします・・・うわっ」
 今度は後ろから押されて床に転がってしまった。
「ああん、きゃあっ」
「なんだ、男だと思ったら女だったのか。そんな男みたいな格好して、お前さん、まるでポーシャだな」
 酔っ払いがイザベラをからかう。
「違います、ポーシャは『ベニスの商人』でしょ。私はイザベラです」
 這いつくばって、ようやく人の輪から抜け出せた。
 敢闘虚しく、突撃取材は実らなかった。
 先輩記者に助けを求めようとイザベラが見回すと、
「あれ? 」
 カウンター席に寄りかかっている男性に見覚えがあった。警察署に勤めるフィリップ・ストックではないか。シーマーの一件でフィリップに話を聞くチャンスだ。しかし、ジョン・ラスキンもすぐ近くにいる。あっちもこっちもで、どうしたらいいのか分からなくなった。
「こんなときに限って・・・何でこうなるのよ」
 間の悪いことに、そこへ、マーク・レモンが姿を現した。マークはフィリップと二言三言交わして、奥の方へ行ってしまった。いかにも秘密の話があるといったような様子だ。警察署に勤務するフィリップと、怪しげなマーク・レモンの会談。記者としての嗅覚がヒクヒクと働いた。出てきたところを狙うしかないと思っていたら、同僚の記者に腕を掴まれた。
「お前も飲め。ビールか、パンチか。会社の金だから遠慮するな」
「いえ、私はお酒が飲めないんですったら・・・それより、取材はどうするんです、記事が書けないじゃないですか」
「そんなものは適当に書いておけ」
「ああ、『夏の夜の夢』、いいえ、『夏の夜の悪夢』だわ」


 フィリップは『シェイクスピアズ・ヘッド』のカウンターで黒ビールを飲んだ。
 店員に、経営者のマーク氏を呼んで欲しいと頼むと、しばらくして、大きな腹を揺らしながらマーク・レモンが現れた。
「おお、フィリップさん、あんたでしたか」
「忙しいところをお呼びだてして、申し訳ありません」
「こっちから訪ねて行こうかと思っていたんだ。こんなことなら、先日お目にかかったときに住所か勤め先を聞いておくんだった」
「勤め先は・・・警察署です」
「おや、警察の旦那でしたか」
「記録係、書記ですよ。今日はシーマーさんの件で・・・」
 フィリップが言い切らぬうちに、
「ロバート・シーマー氏の一件、新聞で見ました。ううむ、残念ですな」
 マークが神妙な面持ちになる。
「新聞では、一時的な精神錯乱とありましたが、その通りなんですか」
「亡くなったのは裏庭でした。猟銃で胸を撃って・・・」
「ああ、なんてこった」
 マーク・レモンは店の奥を指差した。二人だけで話せる部屋を用意するというのだ。


 店内で拍手が起きた。女性の歓声も聞こえた。歓声というより悲鳴だったかもしれない。
「ラスキンですよ。オックスフォードの学生ですが、あれで、ターナーの信奉者だと公言している。父親がワイン商人なので、うちの店にもああやって顔を出すんです」
 人の輪の中心にいるのがラスキンという男らしい。マークの言う通り、学生のように見えた。どことなく中性的な印象だった。その一角はかなり盛り上がっていて、床に転がって騒いでいる者もいた。
 マークが店員に、パンチを二杯持ってきてくれと声を掛けた。
「うちの店はパンチが売りでね」
 それからマークに案内されて奥の部屋へ行った。