小説ー9 ニムロッド・クラブ解散

ニムロッド・クラブ解散
連載第9回  *4*の1


 ロバート・シーマーの訃報記事を見てイザベラ・スミスは呆然とした。
『タイムズ』紙にその記事が載ったのは四月二十二日だった。シーマーは二十日に亡くなった。三十八歳という若さだ。恐ろしいことに、猟銃を使った自殺だった。その原因は、一時的な精神錯乱ということだ。
 猟銃を胸に当て、そのとき、彼は何を思ったのだろうか。それは衝動的な自殺だったのだろうか、それとも、以前から考えていたことなのか。シーマーに会ったのはたった一度きりだった。釣りを題材にした挿絵集を出すと張り切っていた。その彼が自ら死を選ぶなんてとうてい信じられなかった。しかも、『ピクウィック・ペイパーズ』が出たばかりだ。
『リテラ・ゴディカ』紙の発行は一日と十五日なので、シーマーの死亡記事を掲載するのは五月一日発行の号になる。遅ればせながら、編集部はイズリントン管区の警察署に記者を派遣した。
 イザベラは、事件や事故の担当ではないが、シーマーの身に起こった事柄とあって警察に同行を願い出た。湖で出会ったフィリップ・ストックはイズリントン管区の警察に勤めている。彼に話を訊けたら、もっと詳しいことが分かるだろう。それに、イザベラはシーマーの新刊本、あるいは出版予定の本の情報も持っているという強みもある。
 だが、その希望は叶わなかった。家庭欄の記事とは訳が違うと言われてしまった。
 警察署に聞き込みに行った記者が戻ってきた。記者は、現場に駆け付けた巡査からも話を聞くことができた。巡査の名はワトソンだった。だが、聞き取った内容は、『タイムズ』の記事と似たようなものばかりだった。
 取材から戻ってきた記者をつかまえた。
「私、シーマーさんに会ったことがあるんですよ」
「何時ごろ会ったんだ」
「去年の十月でした。湖で釣りをしていましたので取材したんです」
「二、三日前なら特ダネだが、半年も前では古すぎるな」
 それもそうだと半分納得した。
「どんな感じの人なんだ、シーマー氏は」
「新しい挿絵集を出版するんだと言ってました。ですが、地味で、あまり話し好きではなかったです。どちらかというと、明るい性格の方ではなかったと思います」
「警察の発表では一時的な精神錯乱だった。地味で暗いというのだから、そこに原因があるのかもしれないな」
「つい先日、シーマーさんは本を出したんです。私も持っています。それは毎月出るので、来月号は・・・」
 シーマーが亡くなったのであれば、来月号は挿絵が入らなくなってしまう。
「ワトソンという巡査によると、遺書が残されていたそうだ」
「遺書があったのですか」
「警察は遺書を公開しなかった。世間に知られたくないことでもあるんだろう。たとえば、遺産相続とか、そんなところだろうな」
 イザベラには連載の仕事を引き受けているシーマーが自殺するとは思えない。彼が亡くなった背景には何か理由があるはずだ。
 首を傾げ、腕を組んで考え込んでいると、
「どうした、まだ納得できないのか。警察では事件性はないとみている。お前が行っても、これ以上は何も出てこないさ。編集長に掛け合っても無駄だな」
 と、ダメを押された。
 イザベラは、取材してきた記者の話を聞いても、シーマーが亡くなったことに疑問を捨てきれなかった。こうなったら、警察に乗り込むしかない。
 編集長に、シーマーの取材をしたいと頼み込んだのだが、「やめておけ」と、撥ね付けられてしまった。


 そこで、イザベラは別の手段を考えた。釣りの取材をした際に、ロバート・シーマーが『フィガロ・イン・ロンドン』紙で挿絵を描いてることを聞いていた。調べると、同紙の編集長はヘンリー・メイヒューという人物だった。
 メイヒューならば何か情報を持っているのではないだろうか。
 イザベラは『フィガロ・イン・ロンドン』の社屋に行った。『リテラ・ゴディカ』紙の編集長には無断である。後で言えばすむことだ。
 記者が廊下を行き来し、室内では机にぶつかりながら動き回っている。『リテラ・ゴディカ』と同じ光景だ。
 編集長のヘンリー・メイヒューは快く面会に応じてくれた。メイヒューは沈んだ面持ちだった。一緒に仕事をしていたシーマーが亡くなったのである。誰よりも深い悲しみに呉れていた。
 何から質問しようかと迷っていると、それを察したメイヒューが自分から進んで話してくれた。
 彼が言うには、このところシーマーは同誌の仕事を少し減らしていたそうだ。
 それには理由があった。
「実は、シーマーさんは以前に『フィガロ・イン・ロンドン』で、ちょっとした事件に巻き込まれたことがあったんです」
 メイヒューが語ったのは、二年前に起きたシーマーと編集者とのトラブルだった。
 当時、ロバート・シーマーは『フィガロ・イン・ロンドン』の人気挿絵画家だった。ところが、同誌の編集長が芝居の興行に手を出して大赤字を出してしまった。そのため給料の支払いが滞るようになった。シーマーが『フィガロ・イン・ロンドン』から手を引きたいと申し出ると、その編集者はシーマーを個人攻撃したのである。シーマーはしょっちゅう綴りを間違える、彼の絵にはオリジナリティがない、などと触れ回った。シーマーは反論せずに黙っていた。実際のところ、シーマーはたびたび単語を書き損なったのだ。というのは、彼は子供のころ、満足に教育を受けられない環境で育ったからだった。前任の編集者はシーマーより十歳くらい年下だった。シーマーは若い編集者に綴りの間違いを指摘されても言い返せなかったのである。
「そこで、この私が、新たに『フィガロ・イン・ロンドン』の編集を引き受けたという次第です」
 メイヒューは一呼吸おいた。
「その一件が、今回の自殺の引き金になったのではないかと危惧しているんです。ずっと気に病んでいたのかもしれないと思うと、私も責任の一端を感じます」
「いえ、それは、少なくともメイヒューさんの責任ではないと思います」
 イザベラは首を振った。
「そもそもの原因は、前任の編集者が芝居の興行で赤字を出したことじゃないですか」
 メイヒューが「ご理解いただいてありがたい」と言った。
「というようなわけで、シーマーさんには、我が社の挿絵画家に復帰してもらったのですが、彼の希望で以前よりも仕事を少なくしました。シーマーさんは新しい挿絵集の制作に取り掛かりたいということでしたよ」
 それは、挿絵集【ニムロッド・クラブ】のことだ。
「シーマーさんが亡くなったことで、もう一つ困っていることがあるんです」
 メイヒューが言うのは、新しいコミック雑誌の計画だった。その雑誌に、シーマーに挿絵を依頼していたというである。
「つい先日、私は、居酒屋の『シェイクスピアズ・ヘッド』でおこなわれた編集会議に呼ばれました」
 イザベラは『シェイクスピアズ・ヘッド』という居酒屋の名前をどこかで聞いたことがあるなと思った。
「居酒屋の店主は、マーク・レモンといいましてね。彼がコミック雑誌の発起人の一人なんです」
「その人、太って、いえ、体格が良くて、顔は髭だらけの人ではありませんか」
 こんなところで、ヘンリー・メイヒューとマーク・レモンが繋がっていた。世間は広いようで狭い。
「ええ、そうです。まあ、彼はどこにいても目立ちますから」
 その日、編集会議に集まったのは、出版社のブライアント、印刷屋のラスト、それに作家のジェラルドや挿絵画家のヘニングたちだった。
 メイヒューはこの日が初参加だった。
「そこで話し合った結果、新しいコミック雑誌の発行はしばらく延期になりました」
「残念ですね」
「いい雑誌が出せるなら何年でも待ちますよ。実のところ、資金の目途が付いていないんです。スポンサー探しはこれからです」
 資金の目標は二千ポンドだそうだ。二千ポンドもの大金を出してくれる人はそう簡単には見つからないであろう。
「シーマーさんは、この半年の間に『シーマーのユーモラスなスケッチ集』や『風刺年鑑』を出版してましたよね。忙しそうだったのになあ」
「その後で、シーマーさんは、今月、『ピクウィック・ペイパーズ』という本を出したばかりです」
「そうだ、それを忘れてはいけない。マーク・レモンがシーマーさんの挿絵集だか小説を見たと言っていた」
「ええ。私は書店で買い求めました。その本、『ピクウィック・ペイパーズ』は、ディケンズの書いた小説でした。ペンネームはボズでしたが」
「ディケンズね。その人はよく知らないが、どんな方でしょう」
「新人作家だそうです。まだ若くて、二十代半ばと聞いています」
 イザベラは、メイヒューの話にあった前任の編集長が、シーマーより年下だったということが気になった。ディケンズもまだ二十代である。もっとも、ディケンズに関しては、まだ無名に近い新人だから若いのは当然のことだが。
「元々、シーマーさんは狩猟クラブの失敗談を扱った【ニムロッド・クラブ】という挿絵集の出版を計画していました。それが、『ピクウィック・ペイパーズ』に姿を変えたのかもしれません」
「ほほう、あなたは、実に詳細な情報をお持ちのようだが、それはどこから仕入れた話ですか」
「釣りの取材で湖に行ったときに、シーマーさんに会って、直接聞きました。私は【ニムロッド・クラブ】の特派員なんです」
「では、特派員さん、【ニムロッド・クラブ】と『ピクウィック・ペイパーズ』との関係はどうなのか、調べてみてください」
「はい」
 イザベラはメイヒューの忠告を忘れないようしっかり書き取った。
「メイヒューさんに伺ったことを、『リテラ・ゴディカ』紙に書いても差し支えないでしょうか」
「もちろんです。そのために取材に来たんでしょう」
 ズバリと指摘されてしまった。取材目的だったことをすっかり忘れていた。
「私は普段は家庭向けの記事を担当しているので、このような取材は初めてなんです」
 まだまだ記者としては半人前だと大いに反省した。
 イザベラの質問が一段落した頃合いを見計らってメイヒューが言った。
「面白い、あなたが気に入った。お尋ねしますが、『リテラ・ゴディカ』には、イザベラさんのような女性記者が何人もいらっしゃるのですか」
「今のところ、私だけです」
「我が社でも、女性記者を採用してみるとするか」
「そうしてください、これからは女性の記者がどんどん増えるでしょう」
「女性が相手だとついつい喋り過ぎてしまう」
 これは褒め言葉として受け取っておこう。
「あなたは時代の先駆けだ」
 ますます褒められてイザベラは素直に喜んだ。
「その服装、乗馬ズボン、それも時代の最先端ですな」
 ヘンリー・メイヒューに取材したのち、イザベラ・スミスは、警察に行って話を聞くべきだとの思いを強くした。イズリントン管区の警察署にはフィリップがいる。自分こそ適任者である。
 しかし、彼女が実行に移すにはまだしばらく時間が掛った。


☆ 本日もお読みいただきありがとうございました。あと6回続きます。