連載3 彼女は赤い傘を忘れる

 前回までのあらすじ・・・津川は野々宮歩夢と知り合う。津川がオペラ「死の都」の話をすると、歩夢は、合コンで出会った男性がアイドルオタクだったと打ち明ける。


 連載3 彼女は赤い傘を忘れる


 【津川将司の見た夢(あるいは『死の都』第二幕・第三幕)】


 〇 暗い道を歩いていると友人に出会い、彼が持っていた鍵を奪い取った。その鍵を使って野々宮歩夢の部屋に入った。そこには旅芸人の一座がいて歌の稽古をしていた。すると、旗本英子が現れ、歩夢と並んで座った。二人は双子のようにそっくりだった。歩夢はスカートを捲り、太ももを開いて誘惑してきた。誘惑に負けて歩夢を抱いた。翌朝、歩夢が英子の写真を破ろうとしたので、押し倒して上に跨り首を絞めた。
 これで、歩夢は英子と同じ格好になった・・・


 *****


 ああ、夢か。
 津川は起き上がって室内を見回した。女性を絞殺した。野々宮歩夢の首を絞めて殺した。しかし、どこにも彼女の死体はなかった。あるはずはない。夢だったのだ。
 オペラ『死の都』第二幕・第三幕のストーリーとそっくりな夢を見た。
『死の都』第二幕では、旅芸人の一座が、マイヤベーヤの『悪魔のロベール』の稽古をするのをパウルが止めようとする。そこへ教会の合唱が聞こえてくる。
 第三幕の舞台は再びパウルの部屋になる。パウルとマリエッタは一夜を共にする。ところが、マリエッタが、マリーの髪の毛を弄ぶので、それに腹を立てたパウルが絞め殺してしまう。パウルは息をしなくなったマリエッタを見下ろし、「これで、彼女と同じ格好になった」と呟く。彼女とはマリーのことだ。
 そこで舞台は暗転し、明るくなるとマリエッタの姿は消えている。家政婦のブリジエッタが現れ、先ほどの女性が傘を忘れたので取りに来たと告げる。マリエッタは部屋の片隅にあった赤い傘を持って帰って行った。彼女と一夜を共にしたのも、首を絞めたのも、パウルの見た夢だったのである。そして、現実に目覚めたパウルはブリュージュの町から出て行こうと決意するのだった。
 第一幕は現実の世界だが、二幕、三幕目はパウルの夢の世界だった。


 昨夜、歩夢に電話しようとスマートフォンを手に取った。彼女の方から誘ってくれたのだから、あまり待たせては失礼になる。とはいえ、当日の夜では急ぎ過ぎていると思い、連絡するのは控えた。
 それから、旗本英子のことをネットで調べてみた。アイドルグループを卒業して以降、どこで何をしているのか気になったのだ。だが、卒業後の消息に繋がるような情報は見つからなかった。
 アイドル時代の画像、映像はたくさん残っていた。旗本英子はグループ外での個人的な活動も多かった。各地の美術館や文学館を訪ねる番組に出演していて、とくに感心したのは、横山大観、菱田春草など明治期に活躍した画家を紹介する番組だった。台本に沿って喋っているとしても、難しい内容をきちんと把握している様子が見て取れた。知性的な印象を強く受けた。また、小津安二郎の映画の舞台になった北かまくらの料亭を訪ねる番組では、小津の映画に出てくるような、昭和二十年代の女性の雰囲気を見事に醸し出していた。美人画の掛け軸の掛かったお座敷で料理を食べるシーンがあり、箸の使い方、立ち居振る舞いなども優雅で、上品さもあり、見惚れるほどだった。
 津川は歩夢の彼、末田君が旗本英子に夢中だというのも納得がいった。
 英子は美しい、それも知性的で奥ゆかしさを感じさせるものがある。映像には、「今でも忘れられない」とか「あなたのファンで良かった」などのコメントが寄せられている。「卒業後にファンになりました。現役時代が見たかった」という書き込みもあった。これなどは若いファンからのメッセージだろう。旗本英子には今でも多くのファンがいるのだ。
 卒業してから六年、三十歳を迎え、さらに大人の女性になっていることだろう。だが、ファンが覚えているのはアイドル時代の姿だけである。ファンの心理として、現在でも当時と変わらずにいて欲しいと思っているに違いない。
 芸能界を去ったいま、英子はどこで何をしているのだろうか。
 旗本英子と野々宮歩夢の二人の美人に考えを巡らせていたので、それが夢にまで出てきてしまったのだ。そういえば、昨日は歩夢の相談に付き合ったので、『死の都』の話は途中で切り上げた。夢に出てきたオペラの後半部分、赤い傘が現実への懸け橋になることについても話せなかった。それもあって、あんな夢を見たのだろう。
 夢の中で、野々宮歩夢はマリエッタ、旗本英子はマリー役を演じていた。歩夢と結ばれたまではよかったのだが、翌朝、歩夢の首を絞めてしまった。夢の中ではあっても申し訳ないことをした。


 出勤してからも歩夢のことが頭から離れず、津川はつまらないミスをしそうになった。
 野々宮歩夢には、今夜、いや、仕事終わりには必ず電話すると決めた。ゴールデンウイークも近いことだし、事によったら、今年の連休は楽しくなるぞとひとりごちた。
 午後三時を回ったとき、副社長に呼ばれ、経理部長とともに応接室に行った。津川は何となく悪い予感がした。副社長じきじきの呼び出しとなると、今回も契約を優位に進めるための算段だ。きっと、取引先の社長の趣味が音楽とか絵画鑑賞なのだろう。前回は、クラシック音楽ファンというだけで接待の場に同席させられたのだった。
 予想に違わず、副社長が持ち出したのは契約交渉に関する案件だった。
 浮世絵の知識を問われたので、「写楽、広重、北斎」と知っている限りの浮世絵師を挙げ、印象に残っているのは、富嶽三十六景の版画シリーズの神奈川沖浪裏ですと答えた。すると即座に「合格」と宣言された。今度の相手の趣味は浮世絵だというのである。浮世絵に関して津川が知っているのはその程度の知識、いわば中学校の教科書レベルしかないというのに担当係に決められてしまったのだ。
 副社長からは、契約まで一か月半ほどしか時間がない。その間に浮世絵について猛勉強してくれと言われた。
 経理部の席に戻った。
 浮世絵などという、やっかいな仕事を抱え込んでしまった。これで歩夢とデートするのも、ゴールデンウイークの計画も霧の彼方に飛んでいったのと同じことだ。
 津川は相手先の社長の経歴をまとめた書類に目を通した。社長の名前は龍田川大造。相撲取りにでもいそうな名前である。次に出身大学、家族構成、食べ物の嗜好などが載っていたが、どれも津川の興味を引くものではなかった。
 趣味の欄を見ると、そこには「肉筆浮世絵」と書かれていた。
 肉筆浮世絵・・・
 浮世絵と言えば版画だと思い込んでいた。だが、相手先の社長の趣味は浮世絵版画ではなく肉筆浮世絵だったのだ。津川は肉筆浮世絵なるものが存在することを初めて知った。
 さっそく肉筆浮世絵とはどのようなものか検索した。会社のパソコンは使えないので自分のスマートフォンで調べるしかない。
 浮世絵といえば先ず版画を思い浮かべる。版画は錦絵ともいう。画家、江戸時代は絵師、絵描きというべきだろうが、絵師は下絵を描き、次に彫り師が木の板に彫る、それを摺り師が印刷するのである。従って、厳密に言えば、版画、錦絵は絵師の手によるオリジナル作品とは言えない。これに対して、肉筆浮世絵は絵師、絵描きが自ら筆を執って絹、または紙に直接描くのである。むしろ、肉筆浮世絵の方が絵師、絵描きとして筆を存分に振るうことができたと言える。
 肉筆浮世絵の題材は、遊女、花魁などの美人画が大半である。いずれも縦長の画面で、たいていは軸装され、掛け軸になっている。主な絵師、絵描きには、葛飾北斎、菱川師宣、宮川長春、勝川春草、鳥文斎栄之(ちょうぶんさいえいし)、北尾重政などがいる。
 解説に添付された図版によれば、描かれた女性、遊女や花魁は縁台で夕涼みをしたり、三味線を弾いたり、あるいは、花見に興じている。顔は面長、目は細く、紅を指していて、身にまとう着物の柄は大胆である。
 さて、これは困った。津川は腕組みをして天井を見上げた。
 まったく何の知識もないのに、契約交渉において肉筆浮世絵に通じているところを見せなければならなくなった。それも与えられた時間はたった一か月半だ。おそらく相手先の社長は何年も、何十年も肉筆浮世絵に親しんでいるのだろう。だからこそ、わざわざ、肉筆と明記したのだ。
 先ずは画集を手に入れて、絵師の名前、著名な作品、年代ごとの特徴などを調べるのがよさそうだ。というか、それ以外の方法は浮かばなかった。かろうじて、菱川師宣は聞き覚えがあるが、勝川春草、鳥文斎栄之、北尾重政など初めて目にする絵描きだ。
 そこでふと考えた。画集や図版よりも肉筆浮世絵の実物を見たい。オペラだって実際に歌劇場で観るべきだ。
 再び検索すると、開催中の肉筆浮世絵の展覧会が見つかった。場所は大崎駅に近いビルにあるギャラリーである。金曜日の今夜は九時まで開いている。大崎まではJRで十五分、五時に出れば悠々間に合う。
 津川は肉筆浮世絵の展覧会を観るため定時で退社することにした。


 目指すギャラリーは大崎駅のすぐ近くの高層ビルにあった。エントランスには『肉筆浮世絵展』の大きなポスターが張り出されている。エレベーターホールは左右に分かれていて、左側は各階停止、右側の二台は二十五階まで直通だった。右側の直通エレベーターに、ギャラリーはこちらを、との案内が出ていた。
 さて、どんな美人画に会えるのだろうかとエレベーターに乗り込んだ。
 エレベーターを降りたところは照明を落として薄暗くなっていた。受付で入場券を買い求める。料金は1200円、もちろん経費扱いだ。ブースの中の女性がその場で半券を切り取ってくれた。
 受付嬢が美人だった。
 津川は受付の女性をどこかで見たことがあるなと思った。何となく野々宮歩夢に似ているような気がした。そういえば、彼女は会社の受付カウンターに座っていると言っていた。しかし、歩夢のはずがない。ここの受付嬢は展覧会の会期中だけのアルバイトだろう。そもそも、歩夢の会社がどこにあるか聞いていなかった。
 見開きのカタログと出品目録を手に展示室に入る。


 『肉筆浮世絵展~慶三財団所蔵による~』
 入り口のパネルを読んだ。今回の展示は『慶三財団』の所蔵作品が中心だということだ。説明文には肉筆浮世絵の概略が書かれており、後半は『慶三財団』の事業内容が紹介されていた。財団の代表者は柿崎重政、本部は神戸にあるようだ。
 肉筆浮世絵を観ていく。
『蚊帳美人図・川又常行』。
 蚊帳から身を乗り出した美人が満月を見ている姿だ。
『桜下遊女道中図・鳥居清元(二代目)』。
 遊女がお供を三人連れて桜見物をしている図である。
 次のコーナーには江戸時代の女性の髪形について書かれていた。
 平安・鎌倉時代には女性は垂髪や下げ髪が主流だったが、安土桃山時代頃から髪を結うようになった。女歌舞伎、遊女が髪を結ったのを真似したのである。元禄期になると後ろに結んだタボを伸ばし、その後、ビンを大きく広げるようになった。兵庫ビン、島田ビンなどが知られている。また、櫛、かんざしなどを挿すことも広まった。
 このような専門的知識を得ることができれば、肉筆浮世絵展に来た甲斐があるというものだ。
 やはり、版画に比べて肉筆浮世絵は馴染みがないのだろう、館内は来館者が少なくてひっそりとしている。津川の他には年配の夫婦がソファに座って休憩しているだけだった。彼らの前には懐月堂安度、宮川長春の美人画が掛かっていた。
 また、展示を観る。
『二美人図・歌川豊国』。
 三味線を弾く芸妓と側に立つ芸妓、二人の美人図だ。
 『妓楼花魁図・葛飾(東南西)北雲』。
 体を逆「くの字」に曲げて後ろを振り向く花魁の姿。解説には、花魁の着物は鶴の打掛とある。
 『桜下花魁図・鳥文斎栄之』。
 雲竜文様の打掛を着た花魁が、桜の下で体を反らせて振り向いている。髪にはかんざしを挿し、顔も瓜実顔で美しい。
 『蜀山人肖像画・鳥文斎栄之』。
 これは今までとは趣向が変わり、老人の男性の座像が描かれていた。説明文には、鳥文斎栄之は、狂歌の作者、蜀山人こと大田南畝と懇意にしており、一種の文化人サークルを築いたとある。栄之は旗本の家柄で、絵は狩野派に学んだそうだ。
 さらに展示は続き、およそ八十点ほどの肉筆浮世絵を見て回った。
 津川はソファに腰を下ろした。
 肉筆浮世絵の展覧会は初めてだったが、それでも、観ているうちに段々と興味が湧いてきた。
 会社の上司には浮世絵の通になれと指示されているが、そのためには、女性の着物柄、髪型、さらには画の情景など、勉強しなければならないことがたくさんある。一度や二度観ただけではとうてい理解できない。この展覧会の会期は四月末、連休が始まる前日までとなっている。会期中に何回かは足を運ぶ必要があるだろう。
 版画、錦絵と肉筆浮世絵の違いについて考えてみた。特に販売ルートはどうなっていたのだろうか。版画は何枚も摺って販売することができる。しかし、肉筆浮世絵は一点物なので、絵師にとってみれば、誰が購入してくれるかが重要な問題になってくる。


 さて、そろそろ帰ろうかとソファから立ち上がった。相変わらず館内は静かだ。どうやら自分の後に入って来た人はいないようだ。
 津川は出口に向かった。出口の手前には展覧会の図録や、浮世絵関連の書籍が置いてあった。他には浮世絵を印刷した絵葉書、手拭い、団扇なども売っている。津川は展覧会の図録を買うことにした。一冊2800円、これも経費で落とせる。そこは入り口の受付カウンターと背中合わせになっているようで、さきほどの女性が図録を紙袋に入れてくれた。
 野々宮歩夢に似ている女性だ。年齢も同じぐらいだろう。
 幸い、周囲に他のお客はいない。津川は「展示内容について、お尋ねしたいのですが」と訊いてみた。すると彼女は「お待ちください」と断って受付ブースに下がった。受付嬢では専門的な質問には答えられないので、担当の学芸員を連れてくるのだろう。
 間もなく、彼女は胸の前にバインダーを抱えて戻ってきた。
「どのようなご質問でしょうか」
 受付嬢が一人で対応するらしい。となると、彼女が抱えているバインダーは想定問答集の類であろう。
 間近で見るとさらに美しかった。しかも、オーラがあった。
 彼女のオーラに圧されないよう声のトーンを落とす。
「肉筆浮世絵を購入したのはどのような人たちだったのかと疑問に思いまして。つまりですね、版画と違って一点物だし、値段も張ったのではないでしょうか」
「なるほど・・・そうですね。肉筆浮世絵を購入したのは主に裕福な商人たちといわれています。それに、高級料理店が座敷に飾ったり、髪結床が、今で言えば美容院ですけど、髪型の見本として飾ったりしたようです。多くの場合は、あらかじめ買い手が決まっていて、絵師は注文に応じて描いたと考えられます」
 彼女はスラスラと淀みなく質問に答えた。受付嬢だと思っていたが、学芸員並みの知識を持っていた。
「他には、幕府の重職、たとえば奉行職とか、あるいは、地方の大名の江戸屋敷なども顧客だったそうです」
「そう言えば、絵師、絵描きの中には旗本もいたようだ」
「ええ」
 彼女に何とも言えない困ったような表情が浮かんだ。津川は何か間違ったことを言ってしまったのかと思った。
 しかし、彼女はすぐに元の顔つきに戻って続けた。
「おっしゃる通りです。展示にあった鳥文斎栄之という絵師は旗本で、勘定奉行を勤めた細田家の出身でした」
「勘定奉行ですか。鳥文斎栄之は太田蜀山人と交流があり、絵を狩野派に学んだのち、肉筆浮世絵の筆を執ったとありましたね」
「よくご存じで・・・」
 彼女が嬉しそうにほほ笑んだ。津川は展示の説明文にあったことをそのまま言ったまでだ。ちゃんと読んだことを褒められたのだろう。さきほど彼女が見せた困惑した表情は、単なる思い過ごしだったようだ。
 そこへ展示室から受付嬢と同じ制服の女性がやってきた。スタッフの一人だ。津川は帰ろうとして受付嬢に礼を言った。受付嬢が軽く一礼して下がった。そのとき、バインダーの隙間から一瞬だけ胸のネームプレートが見えた。
「・・・は、いかがいたしましょうか」
「そうね、もうすぐ兄が東京へ着くから・・・」
 エレベーターホールにいる津川にも二人の会話が聞こえてきた。後から来たスタッフの方が年上に見えたが、若い受付嬢に対して敬語を使っている。受付嬢に指示を仰いでいるかのようだ。どうやら受付嬢が上司、スタッフは部下らしい。
 そう考えるとますます彼女のことが気になった。さきほど見たネームプレートの文字を思い出す。
 アルファベットで【EKAKI】とあり、あとに数文字続いていた。Zのように見えた。受付嬢は『えかき』という苗字なのだろうか。浮世絵だから、絵描きを想像したが、それはいくら何でも出来過ぎだ。『えかき』を漢字にするなら『恵垣』が妥当である。
 恵垣さんか・・・
 時計を見ると、六時半を回ったところだった。一日目の収穫としては十分だった。肉筆浮世絵の知識が多少なりとも身に付いたので、週明けには上司に良い報告ができよう。
 思わぬ成果に余裕が出てきた。津川は野々宮歩夢に連絡を取ることにした。都合が良ければ今夜にでも、『三船屋』で会いたい。そう考えながら下りのエレベーターに乗った。


☆ 今回もお読みいただきありがとうございました。あと一回で終わります。