連載2 彼女は赤い傘を忘れる

 前回までのあらすじ・・・津川がバーで、観てきたオペラの話をしていると、きれいな女性が現れ・・・


 連載2 彼女は赤い傘を忘れる


 野々宮歩夢はカクテルを飲み干した。いい飲みっぷりである。大きなため息をつき、それから話し始めた。
「彼のことなんだけど」
 マスターは予想通りといった感じで津川を見た。津川は、男性に関する身の上相談を聞かされるのはあまり気が進まなかった。しかし、退散するにも、きっかけを失ってしまったので歩夢の話に付き合うことにした。
「久し振りに合コン行ったんですよ。私以外はみんな二十代だったけどね。そこで知り合った男性、外資系企業、イケメン、しかも一個下。あり得ない好条件でしょ。最初のデートは、横浜のみなとみらいで、赤レンガ倉庫周辺、横浜スタジアムとかも行った。だけど、こっちは野球に興味ないし。赤レンガでは倉庫をバックに写真撮って、おしまいよ」
 歩夢がカクテルのおかわりを頼んだ。お酒の力を借りなければ話せことなのか。
「津川さん、アイドル好き? 誰かファンいる? 」
 いきなりアイドルの話題に変わった。話の行先がどこへ向かうのか分からない。
「AKB48は見てましたが、特に誰かのファンにはならなかった。乃木坂46もデビューしたころは見てたなあ」
「握手会とか行ったことあります? 」
 津川は首を振った。
「ああ、良かった」
 握手会などのイベントに参加するため、CDに付いている参加券を目当てに何枚も購入し、そのCDが中古レコードショップに大量に置かれていたのを見た覚えがある。津川は高校生のころだったから金銭的に余裕がなかった。
「その彼、末田君ね。優しいのはいいんだけど、積極的じゃないのよね。私も三十なんだから、子供じゃないし。スタジアム見てもつまんない」
 津川は曖昧に頷いた。最初のデートはそんなものだろう。お互いを知り合って、その後は二人の気持ち次第だ。
「そしたら、合コンで一緒だった子が教えてくれたのよ。末田君、アイドルオタクなんだって。それも筋金入りの、沼にハマったタイプ」
 歩夢によると、末田という彼は、女性アイドルグループ、ミンネ・クイーンズのファンで、中でも旗本英子というメンバーが推しだった。その旗本英子はすでに六年前、2017年にグループを卒業し、同時に芸能界からも完全に引退している。その後の消息は不明である。一般人になったので、芸能マスコミが追いかけることもなく、どこに住んでいるか、結婚したのかなど、現在の状況はまったく分からないということだった。
 津川は、ミンネ・クイーンズも旗本英子も初めて聞く名前だった。
「卒業したのは二十五歳のとき、今では三十をオーバーしてる。それがね、聞いてよ、旗本英子、似ているんだって、私に」
 歩夢はスマートフォンを津川に向けた。
「旗本英子の写真」
 津川は旗本英子の画像を見た。一枚目は何かのイベントの写真だろうか、マイクを持って微笑んでいる。次は横顔、鼻がスッと高くてきれいだ。続きを見ていくと、ライブで他のメンバーと歌っている場面もあった。花束を受け取っているシーンでは、泣いているのだが、その泣き顔も美人だった。彼女が二十五歳のときの写真だと仮定して、年齢の割に大人びているし、知性的な印象を受けた。
「どう、似てる? 」
 歩夢が訊ねた。津川は、旗本英子がしっかりメイクした写真は歩夢と似ていると思った。マスクをしていれば本人と間違えられる可能性もあるのではないか。
「大人びた雰囲気といい、真面目そうで、理知的な感じは歩夢さんと似ていますね」
「まあね」
 似ているかと訊ねられたから似ていると答えたまでだ。それなのに、歩夢はあまり嬉しそうではない。だから、女性は難しい。


「それで、末田君ったら、私のことを旗本英子の代わりにしようとしたんじゃないかと思ったわけ。イヤでしょう、そんなの。だから、乗り込んだのよ、彼のマンションに」
 そこで歩夢が見たのは、旗本英子のグッズに埋め尽くされた部屋だった。壁には旗本英子のポスターが何枚も張られ、天上からはメガホン、サイリウムが下がっていた。名前入りのタオル、親衛隊が着る法被もあった。本棚には写真集やアイドル雑誌、彼女が表紙になった女性ファッション誌がズラリと並んでいた。極めつけは旗本英子の等身大のパネルで、金のモールが付いたミニスカート姿だった。
 なるほど、引退後もファンでいるのは、死んだ妻のことが忘れられないという『死の都』のストーリーと酷似するところがある。
「まあ、それくらいはよくありそうな話だ」
 マスターも同感だ。
「だけど、叔父さん、物には程度があるでしょう。男の人が女性ファッション誌を買うのって信じられない。それだけじゃないのよ。旗本英子の写真に混じって、私とデートしたときのツーショットが飾ってあったのよ。思い出してもゾッとする」
 野々宮歩夢は両手で身体を抱えてみせた。
「赤レンガ倉庫でミンネ・クイーンズのイベントがあって、横浜スタジアムで始球式したんだって。デートといっても、私と聖地巡礼したかっただけなのよ。バカにしてるじゃない。アイドルなんかより、私のことはどうなのよって言ってやったわ」
「それはあまりいい気分ではないでしょうね。アイドルに関心があるのはいいとしても、歩夢さんを身代わりにするのは、普通ではないかもしれない。それで、彼の答えは? 」
「旗本英子は卒業して、もう会えないから・・・やっぱり、私が似ているんで、その代わりが欲しかったと白状した」
 歩夢は「もっと濃くして」と大きな声でお代わりを注文した。
 マスターがカクテルを作った。歩夢は一口飲んで、うぷっと噎せた。今度はかなりアルコール度数が高かったようだ。
「飲んでみて」
 歩夢は津川にカクテルグラスを差し向けた。歩夢が口を付けたグラスだ。津川はグラスを半回転させて飲んだ。確かに濃い。
「そういうわけでね、津川さんの観たオペラのストーリーを聞いて、現実にも同じような話があるって言いたかったの」
 グラスをまた自分の方に引き寄せた。
「彼とは、末田君とは、どうするつもりなんだ」
「叔父さん。オタクとは別れるしかないでしょう。当然よね」
 それがいいですよ、津川もそう思わずにはいられない。
「だけど、だけどさ。旗本英子に負けるなんてイヤ。だって、写真よ、ポスターよ、相手は。どうにもできないでしょう。私は現実に生きているんですって・・・」
「分った、歩夢ちゃん」
「分かってないって。アイドルと比べられて、そりゃあ、勝てないまでも、何か悔しい。というか、彼女は元アイドルだから今は一般人なんだよね」
 歩夢はアイドルに対抗意識剥き出しだ。というか、簡単には引き下がりたくないのが本音のようである。
 旗本英子は六年も前に引退したのだが、現在でもファンの男性をそこまで夢中にさせている。よほど魅力があったのだろう。しかも、二十五歳で芸能界から姿を消したとあっては、ファンの間で伝説として祭り上げられたのかもしれない。


 そろそろ帰ると言うので津川は野々宮歩夢を送っていくことにした。それほど酔ってはいないがタクシーの方が無難だろう。
 タクシーに乗り込むと歩夢は津川のスーツの肩口を掴み、「そうだ、忘れてたけど、もう一つ変なことがあるんです」と切り出した。
「会社の入ってるビルでね、最近、ていうか、四月になって全然知らない人に挨拶されるのよね。今日は十三日だっけ、そうよね。一週間くらい前からなんだけど、仕事終わりで帰ろうとしてロビーに降りたら、もうお帰りですか、とか言われた」
 そのビルは三十階ほどの高層ビルで、オフィスや事務所が幾つも入っており、飲食店、洋服やアクセサリーの店、カルチャー教室もあるということだ。大勢の人がいれば、他人の空似ということもあろう。マスクをしているのだから尚更である。五月の連休明けには新型コロナのさまざまな規制が解除になるが、それまではマスクは外せない。
「四月になってからというと、何か心当たりはありませんか」
「そうねえ、四月は新規採用が多いから、どこかのテナントに似た人が来たのかも」
 おそらくそれが真相だろう。ただ、歩夢は末田君の一件もあって、職場で人違いされるのは気持ちよくないようだ。
「私、会社の受付に座ってるの。ホントは秘書課なんだけど、新型コロナで来客が減ったでしょう。仕事がなくなってアルバイトは辞めちゃった。それで受付も兼ねているわけ」
「会社の顔ですね、歩夢さん」
 こんな美人が会社の受付にいれば、用はなくても顔を見に来るだけの人や、世間話をして帰ってしまう客もいるに違いない。
「津川さん、叔父さんの店にはよく来るの」
「月に一、二度くらいです」
「ねえ、また会えない? 」
 歩夢がストレートに誘ってきた。
 末田君のことはどうなったのだろう。旗本英子には負けたくないとか、まだ未練がありそうな様子だったが。
「いいですよ、『三船屋』なら、いつでも」
 美人の歩夢と再会を約束した。しかも、彼女からの誘いだ。津川は何故か動揺して、
「旗本英子って本名ですか」
 と訊ねた。
「知らない、本名じゃないの」
 歩夢は素っ気なく答えた。旗本英子のことを蒸し返したのは失敗だった。
「いえ、芸名にしては平凡だなと思って」
 慌ててフォローする。
「歩夢さんの名前の方がよっぽど芸能人らしいです」
「ふふ、私、これでも学生時代はミス・キャンパスに選ばれたことがあるのよ」
「美人ですから、それも当然でしょう」
 うまくリカバリーできた。
「でも、三位だったけどね。優勝した子は女子アナになって、先月、結婚したわ」
 同世代が結婚していく中で自分だけ取り残されそうで、焦っているのかもしれない。それが、合コンで巡り合った男性がアイドルオタクだったでは、ハズレくじを引いたような心境なのだろう。
 間もなく家の近くに到着した。歩夢はタクシーを降りる直前、小さな紙片を渡した。津川が開くと電話番号が書かれていた。


 次回へ続く


☆ 今朝、5時に起きたのですが、外は暗いのに、気温は高くて、変な感覚になりました。夏の時期は5時にはもう太陽が昇っているから外は明るい。それが、暗くて暑いのが不思議だった。