連載1 彼女は赤い傘を忘れる

 本日から、このブログにて、新作、「彼女は赤い傘を忘れる」を四回にわたって掲載してまいります。よろしくお願いいたします。


 彼女は赤い傘を忘れる


 オペラを題材にした小説の四作目です。今回取り上げたのは、エーリッヒ・コルンゴルド作曲、オペラ『死の都』です。1920年初演のオペラです。


 登場人物
 津川将司 
 野々宮歩夢
 旗本英子
 マスター


 連載1 


 【コルンゴルド作曲 オペラ『死の都』第一幕より】


 〇場所 ブリュージュ。パウルの部屋。
 部屋の中の机や棚にはパウルの妻マリーの写真が置かれ、壁にはマリーの等身大の肖像画が飾ってある。家政婦のブリジエッタとフランクが部屋に入ってくる。フランクはこの部屋の主パウルの友人である。
 フランクは絵を眺め、それから机の上の写真を手に取る。
「美しい人だったんだ・・・マリーは」
 ブリジエッタが装飾された小箱を示す。
「箱の中には遺髪が・・・ご主人様は亡くなった奥様のことが忘れられず、思い出に浸っているのです」
 彼女は周囲を窺う。
「ところが、昨日、外出から戻ってきたご主人様は、妻に会えると、それはもう大喜びでした」
 そこへ、この部屋の主人パウルがやってくる。パウルは興奮した面持ちで話す。
「聞いてくれ、フランク。もうすぐマリーが来る、戻ってくるんだ」
「マリーはすでに亡くなったんじゃないか」
「違うよ、マリーは生きている」
 マリーが現れる。マリーはパウルに微笑みかけ、ゆっくりと部屋の中を歩く。
「昨日、マリーとそっくりな女性に逢ったんだ。あれはマリーだ。髪も着ている服もすべて一緒だった、この絵のように。願いが通じた。だからこの部屋に招いたのさ」
 マリーはパウルの話に頷く。
 フランクは、「君は夢を見ているんだ」と言って出ていく。
 入れ違いにマリエッタが入ってくる。彼女は白いコートに赤い傘を持っている。マリエッタは赤い傘をテーブルに立てかけ、部屋を見回す。
「あなたが誘うから来たのよ。だけど、この部屋、何だか窒息しそうになるわ」
 マリーはパウルとマリエッタの間を縫うように歩く。
 大きな絵の前でマリエッタがポーズをとる。パウルはマリエッタに向かってマリーと呼びかける。
「マリー」
「私はマリエッタよ」
 パウルはうなだれてソファに腰を下ろす。その傍らにマリーが座る。
 マリエッタはコートを脱ぎ捨てる。
「一曲歌うわね」
 マリエッタが、私に残された幸せ・・・と歌う。


 *****


「死の・・・都」
 マスターがマドラーを落としそうになった。
「題名だけ聞くと廃墟になった町の話を想像するかもしれませんが、『死の都』は幻想的でロマンティックなオペラです」
 津川将司はそう答えてからジントニックを口に含んだ。『三船屋』は地下鉄六本木駅からほど近い路地裏にある。テーブル席が三つとカウンターだけの小さな店だ。場所柄、外国人のお客も多い。今夜もテーブル席からは英語が聞こえてくる。
「『死の都』が作られたのは1920年、作曲したのは、コルンゴルドです。ロマン派最後のオペラと言えます」
「あまり聞いたことがないですね、コルンゴルドというのは」
「コルンゴルドはオーストリア出身で、『死の都』を作曲したのは23歳のときでした。その後、第二次世界大戦中にアメリカに渡って映画音楽を手がけています」
 テーブル席の外国人客がマスターを呼んだ。マスターは、失礼と言って注文を聞きに行き、新しいボトルを置いてすぐに戻ってきた。
「それで、『死の都』は、どんなオペラなんです」
「オペラの舞台はブリュージュという町です。主人公はパウルという男性で、彼は妻のマリーに先立たれました。年齢は三十代後半か四十代でしょう。つまり、亡くなった奥さんも若かったんですね。パウルはマリーのことが忘れられない、妻が死んだことが受け入れられない。そこで、部屋の中にマリーの写真や遺品、等身大の肖像画などを飾っているんです。そこへ、町で逢った女性が現れ・・・」


 店の扉が開いた。
 入ってきたのは二十代後半と思われる女性だった。身長は165センチくらい、足が長くて紺のパンツスーツが似合っている。形の良い眉、大きな目、マスクをしていても美人だと分かる。津川は、マリエッタが登場するシーンを話していたタイミングでもあり、彼女が傘を持っていたので、本当にマリエッタが来たのかと思った。
「やあ」マスターが軽く手を上げた。彼女は「こんばんは」と言って、カウンター席に座った。津川の座る椅子とは一つ間を空けた。
「うちの姪です」
 マスターが頭を掻いた。
「野々宮歩夢です」
「津川将司です」
「どうした、また何か相談事があるのかい」
「ごめんなさいね、身の上相談があるときだけ来ちゃって。叔父様、聞いてよ」
 野々宮歩夢は津川をチラリと見た。個人的な相談を見ず知らずの人に聞かれたくないのだろう。
 歩夢が何か言いたそうな表情を見せるのをマスターが制して、
「津川さん、それからオペラはどうなりますか」
 と、話の続きを促した。


「では、オペラの話を続けます。そうでした、町で見かけた女性が来た、という件りでしたよね」
 津川は話を続けた。だが、野々宮歩夢が相談事があるというので手短にまとめることにした。舞台の演出や歌手の話よりも、興味を引きそうな話題がよさそうだ。
「津川さん、オペラをご覧になるんですか、私まだ見たことないわ」
「僕がオペラを観るようになったのは、大学時代の友人の影響でしてね。彼の祖父がドイツ人だったんです。ワーグナーのオペラを観るためにドイツの歌劇場へ行くほどでした」
 野々宮歩夢を前にして津川はどことなく固い口調になる。
 注文したカクテルがきたので歩夢がマスクを外した。整った顔立ちで、女優かタレントだと言ってもおかしくない。カクテルグラスの持ち方も様になっている。津川は思わぬ出逢いに胸が高鳴った。
「オペラの趣味が仕事上でも役に立ったことがありました。会社で新規の契約が進んでいたとき、相手先の社長がクラシック音楽ファンだと分ったんです。同じ趣味ということで僕が呼ばれ、社長と話が合って契約を取れました。それ以来、文化的な案件があると助っ人を頼まれます」
「ふうん」
 歩夢の前でいいところを見せようと仕事上の自慢話をしたが、期待した反応は得られなかった。
 津川はそこでスマートフォンを取り出した。
「僕が観てきたのは、コルンゴルド作曲の『死の都』というオペラです。オペラといったら、たいていストーリーは荒唐無稽、歌手の歌も大げさ。身近にはありそうもない、非現実的な世界ですけど、コルンゴルドの『死の都』は時代設定といい、登場人物がスーツを着ていたりと、かなり現実的と言えます」
「コルンゴルド? 」
「1920年代、ウィーンで活躍した作曲家です。コルンゴルドはアメリカに渡ってからはハリウッドで映画音楽を作曲し、アカデミー賞を受賞した。現在のハリウッド映画に大きな影響を与えたんです。彼はこんな音楽も作っていますよ」
 スマートフォンを操作して目的の音源を表示させた。マスターが画面を覗き込む。野々宮歩夢も津川の隣の席に移動してきた。
 他の客に聞こえないよう音量を小さくして再生させた。
 短い前奏の後に金管のファンファーレが鳴り響く。
「スターウォーズ! 」
 歩夢がそう言って目を見張った。
 聞こえてきたの『スターウォーズ』のメインテーマを思わせるメロディーである。ファンファーレから次に続くメロディーはまさに『スターウォーズ』だ。
「スターウォーズにそっくり、でも、ちょっと地味な感じがするわね」
「この曲は、コルンゴルドが作曲した、映画『嵐の青春』、原題『キングスロウ』のテーマ音楽です。『スターウォーズ』に比べるとやや抑え気味でしょう」
 興味津々とばかりに歩夢が津川に身体を寄せてきた。『嵐の青春』の音楽は彼女の関心を引き付けたようだ。
「『嵐の青春』は1941年の映画なので、『スターウォーズ』よりも三十年以上前です。『スターウォーズ』の方が参考にしたと言えます」
「盗作にならないんですか、こんなに似ていて」
「コルンゴルドはハリウッドの大先輩ですからね。『スターウォーズ』を作曲したジョン・ウィリアムズにしてみれば、敬意を込めて引用したんでしょう」
「それにしても、そのまんまだわ」
「そうだ、『嵐の青春』には、ロナルド・レーガンが出ていますよ」
「誰ですか、ロナルド・レーガンって」
 歩夢が訊いた。
「そうか、歩夢ちゃんは知らないんだな。レーガンはアメリカ大統領だった男。映画俳優から大統領になったわけ」
 マスターが答えたが歩夢はポカンとしている。
「詳しいのね、津川さん。お幾つ」
「僕は三十二歳です」
「二つしか違わないんだ」
 歩夢は「もちろん私が下よ」と笑った。


「オペラの話に戻しましょう。主人公はパウルという男性で、まだ若いのに奥さんのマリーを亡くしてしまいました。ところが、彼はそれが受け入れられなくて、妻の写真や思い出の品を部屋に飾っているんです。等身大の肖像画を壁に掛けてあったりします。友人が、マリーはもうこの世にはいないと言っても、パウルは生きていると言い張ります」
 津川がそう話したとき、野々宮歩夢はスッと身体を引いた。『スターウォーズ』には関心をみせたが、オペラのストーリー自体には興味がなさそうだ。これは致し方ない。
「そこへ、前日、町で見かけたマリエッタという女性が訪ねてきます。マリエッタは旅芸人の女優です。彼女はパウルの部屋の中を見て驚きます。亡くなった奥さんのことが忘れられず、写真や思い出の品々、肖像画に囲まれているんですからね。しかも、パウルはマリエッタに向かってマリーと呼びかけてしまいます。マリエッタは妻のマリーに面影が似ていたんです」
 歩夢は津川の話を黙って聞いている。
「『死の都』の第一幕はこんな風に進んで、第二幕、第三幕はいささか幻想的な雰囲気になります」
 話が長くなり、歩夢が退屈してきたようなので津川はそこでやめた。
 今回の上演では、死んだマリーが舞台上に現れるという演出だった。原作にはない演出だ。マリーの姿は観客からは見えているが、舞台の上の人物には見えていないという設定である。
 パウルを挟んで両脇にマリーとマリエッタが座るシーンがあった。観客にはマリーの姿が目に入っているのだが、パウルとマリエッはマリーの存在に気が付かない。マリエッタの側にマリーが座り、パウルがそれを眺めるシーンでは、そっくりな二人が並んでいて美しく幻想的だった。
 オペラにおける演出とは、音楽と歌詞はそのままで、見せ方を変えるのである。しかし、そこまで詳しく話すのはやめた方がよいだろう。野々宮歩夢はマスターに相談があると言っていた。自分だけが時間を独占してはいけない。
「マスター、僕はこれで・・・」
 津川はそう言って腰を浮かせた。それを歩夢が引き留めた。
「津川さんも聞いてください」
「おいおい、人生相談に津川さんを巻き込むなよ、今日初めて逢ったばかりだろう」
「だって、『死の都』に関係あるんですもの、いいでしょう」
 オペラに関係がある・・・そう聞いて津川は帰るわけにいかなくなった。