連載4 彼女は赤い傘を忘れる

 前回までのあらすじ・・・津川は野々宮歩夢と知り合う。歩夢は合コンで出会った相手がアイドルオタクだったと嘆く。また、最近、会社の入っているビルでよく人違いされると言う。さて、津川は仕事の関係で肉筆浮世絵の展覧会を観る。その受付の女性が歩夢に似ていた・・・


 連載4 彼女は赤い傘を忘れる


 一階に着いてエレベーターを降りたときだった。
 向かい側の各階停止のエレベーターのドアが開いて数人出てきた。その中に野々宮歩夢の姿があった。
 顔を見合わせて「どうも」と言う。
「津川さん、ここに御用? それとも私に会いにきてくれたとか」
「会いにきた・・・というと、歩夢さんは、このビルの会社にお勤めなんですか」
「そうよ、二十三階の会社。言わなかったかしら」
 聞いてはいなかった。偶然にも、歩夢の職場はこのビルにあったのだ。
 津川は浮世展のカタログを見せた。 
「僕はギャラリーに浮世絵展を見に来たんです」
「オペラの次は浮世絵ですか。趣味が広いのね」
「会社の命令なんです」
 契約を有利に進めるために肉筆浮世絵を勉強しているのだと付け加えた。
 そこで受付嬢のことを思い出した。
「そういえば、歩夢さんは会社で受付をしているということでしたね。それで誰かと人違いされているとか」
「そうよ、今朝もエレベーターに乗るとき、知らない人に挨拶されたわ。そっちは各階止まりだよとか言われた」
「実は、浮世展の受付の女性が歩夢さんに似ていたんです。マスクをしていたけど、雰囲気はそっくりだったなあ」
「似ている? その展覧会はいつから始まったの」
「今月の五日からです」
 カタログを見て答えた。
「じゃあ、それよ。だって、以前はそんなことなかったのに、今月になって何度も人違いされるようになったんだから・・・その人、何ていう名前でした? 」
「ええと、確か、恵垣さんだったかな。チラッと見ただけですから自信ないけど、ネームプレートにはEKAKIとありました。いや、その続きでZだかKとか書いてあったような気がします」
「ちょっと待って・・・EKAKIにZか・・・」
 歩夢は目を動かしながら何かを必死で考えていた。
「それ、ドンピシャかも」
「ドンピシャですか」
「旗本英子のこと調べたんですよ、そしたら、本名が分かったの。彼女、柿崎英子、カキザキエイコ、というのが本名だったの」
 本名を突き止めるとは、やはり歩夢は旗本英子に執念を燃やしているようだ。
「柿崎をローマ字にしたら、KAKIZAKIでしょう。それに、名前の英子のEを付けたら、E・KAKIZAKIになるわ」
 歩夢がスマートフォンを取り出し、メールの画面を表示させて【E・KAKIZAKI】と書いた。
「津川さんが見たのはEKAKIではなくてE・KAKIZAKIだったのよ」
「E・KAKIZAKI・・・なるほど、Eは英子のEだったのか。あり得なくもないな」
「絶対それだってば」
 歩夢が津川の手を掴んだ。
「展覧会は何時までやってるの、時間よ、まだ開いてる? 」
「金曜日は午後九時までです」
「バッチリじゃないの。行きましょう、行って確かめるわ」
「受付嬢が元アイドルの旗本英子だったというんですか」
 歩夢はそれには答えず、直通エレベーターのボタンを押した。箱はまだ上階にある。
 浮世絵展の受付嬢が旗本英子だと決めつけるのには無理があるのではないか。けれども、歩夢にしてみれば、自分が人違いされる原因を確かめたいのであろう。
 もし、恵垣あるいは柿崎という受付嬢が旗本英子だったらどうするのか。歩夢は合コンで知り合った彼、末田君には推しのアイドルの身代わりにされたことを怒っていた。旗本英子だと判明したなら、何を言い出すかわからない。
 エレベーターが降りてくるまでに思いとどまらせる方法はないものか。津川の心配をよそに野々宮歩夢はマスクを外し化粧を直している。
「旗本英子という芸名なんだけど」
「芸名がどうしたの」
「肉筆浮世絵の作者に鳥文斎栄之という絵師がいた。栄之は旗本の家柄だった。旗本英子という芸名は、江戸幕府の旗本からとったんじゃないか」
「それが何か」
 エレベーターが来たので乗り込む。
「たぶん、彼女の周囲に肉筆浮世絵に詳しい人がいた。だから芸名に旗本を使ったと思いませんか」
 そこで自分の言葉に引っ掛かるものがあった。けれども、うまくまとまらない。
「肉筆浮世絵を主有している財団の関係者だったとしたら、どうだろう。彼女は浮世絵の知識が豊富だった。財団の一族の可能性があります」
「財団の・・・一族」
「慶三財団と言うんですよ、この展覧会の主催者は。アルファベットのKが三個で「ケイサン」。KAKIZAKIにはKの字が三つ含まれている」
 歩夢が「あっ」と小さな声を上げた。
 それに、わざわざ、E・KAKIZAKIと書くのは、スタッフの中に複数の柿崎姓がいるからであろう。確か、説明のパネルには、財団の代表は柿崎重政と記されていた。柿崎家の一員だから、英子のEを付けて区別したのだ。


 エレベーターが着いた。ドアが開く。
 財団の一族という言葉が効いたのか、歩夢は先ほどまでの勢いはどこへやら、津川の背中に回って隠れた。津川は仕方なく受付を覗き込んだ。
「何か・・・」
 帰ったばかりの客がすぐに戻って来たのだから受付嬢が怪訝そうな顔をした。
「お忘れ物ですか」
「いえ、そうではなくて」
 受付嬢が歩夢に気が付いた。
「「あ」」
 二人が同時に声を出した。
 受付嬢がにっこり笑う。マスクをしていても、それはアイドルの笑顔だった。
「お忙しいところ、すみません。少しお時間をいただけないでしょうか」
「はい」
「こちら、野々宮さんというのですが、どうやら自分と人違いされるほど似た方がいらっしゃるそうで。それで、もしやと思い、お連れしました」
 津川は自分が歩夢を連れてきたことにした。その方が事がスムーズに進む。
 受付嬢が外へ出てきた。こちらへと、津川と歩夢をスタッフルームに案内し、部屋にいたスタッフに受付を代わってくれるように頼んだ。
「狭くてごめんなさい。他に部屋がないもので」
「こっちこそ、突然押しかけて来ちゃって、ごめんなさい」
 そこは六畳ほどの広さでテーブルとソファがあり、部屋の隅には段ボール箱が幾つも積み重ねられていた。二人にソファを勧めたが、津川は遠慮して壁際に下がった。歩夢と受付嬢が並んで腰かける。
「野々宮さんでしたね」
「ええ、野々宮歩夢です」
「初めまして・・・柿崎英子です」
 柿崎英子という名前だった。
 短い沈黙。先に英子が口を開いた。
「こちらにお勤めなんですか」
「二十三階のオフィスです」
 歩夢は五年くらいになると添えた。
「それでは、私は展覧会の始まった今月の五日からですので、歩夢さんの方が先輩でいらっしゃるのね。よろしくお願いいたします」
「恥ずかしいわ、先輩だなんて」
 先輩と持ち上げられて歩夢が照れている。
 柿崎英子が「マスク、外しませんか」と持ち掛けた。二人がマスクを外し、顔を見合わせた。
「ホント、これなら間違えられるはずだわ」と歩夢。
 津川も二人を見比べた。確かにそっくりだ。切れ長の目、口元、スッとした鼻、化粧も似ている。
「私は展覧会の間だけ勤務しているんです。勝手がわからず、ビルの中をウロチョロしてしまい、それで人違いされてしまったみたいですね。ご迷惑お掛けしているようで、申し訳ありません」
「そんなことありませんよ、似ているって言われて光栄だわ」
「光栄? 」
「ええ」
 野々宮歩夢が座り直して姿勢を正した。
「間違っていたら、ごめんなさい。もしかして、ミンネ・クイーンズにいらした・・・旗本英子さんですか」
 今度は間を置かず英子が答える。
「おっしゃる通りです。元ミンネ・クイーンズの旗本英子です。現在は本名の柿崎英子ですが」
 やはり彼女は元アイドルの旗本英子だった。
 卒業したときが二十五歳だから、現在は三十一歳だろう。目の前の英子はその年齢に相応しい美しさを見せている。これが成熟したということなのか。離れて立っている津川も英子の身体から漂うオーラを感じた。それに、隣に座った野々宮歩夢も元アイドルに負けず劣らずキラキラしている。
「アイドルの方のように見られているんだから、とても光栄です」
 受付嬢が元アイドルの旗本英子だと知って怒り出すかと思いきや、歩夢はすっかり上機嫌だ。それはそうだろう。美人のアイドルと同一視されているのだから。
 津川は、歩夢はアイドル時代の英子に似ていると思った。歩夢は、ミンネ・クイーンズの旗本英子の化粧を真似したのかもしれない。『似せている』と言うべきだろう。ネットの画像は新しいものでも英子が二十五歳のときだ。そうすると、歩夢はかなり若く見せようとしていることになる。さきほど、急いで化粧を直したのも、メイクを確認したかったのだ。アイドルに似ていることを喜んでいるとしか思えない。津川はそんな歩夢が愛おしくなってきた。


「グループを卒業されて、芸能界からも引退されましたよね」
「家族が反対だったんですよ、芸能界に入るのを。特に父親に猛反対されちゃった。だから二十五歳までは好きなことをさせてもらったけど、その後は家業を手伝うって約束させられたんです」
「家業というのは、この展覧会の・・・」
「ええ、祖父が設立した慶三財団で働いています」
「じゃあ、お嬢様なんですね」
「それほどではありませんよ」
 柿崎英子が下を向いた。
 やはり単なる受付嬢ではなかった。柿崎英子は財団の創業者一族だったのである。どうりで、肉筆浮世絵に詳しいと思った。
「旗本という芸名は、浮世絵の絵師、鳥文斎栄之が旗本の家柄だったところから付けたのでしょうか」
 津川は訊いてみた。
「はい。本名では芸能活動を許されなかったので、デビューするとき、鳥文斎栄之に因んで旗本と名乗りました。英子は、そのままですが、これは父親が、栄之の「えいし」から名付けたそうです」
 なるほど、言われてみれば、英子は「えいこ」とも「えいし」とも読める。旗本英子という名前には、こんな秘密が隠されていたのだ。
「私の知り合いで・・・彼ではありませんけれど」
 歩夢がそう言って津川を見た。
「旗本英子さんのファンがいるんですよ。卒業して六年経っても、すっごいファン。CD、DVD、それからポスター類を部屋に飾ってあって。写真集は三冊だったかな。英子さんが表紙になっている女性ファッション誌もズラリと並んでた。そうそう、等身大のパネルもあったわ」
「金モールの衣装でしょ」
「それそれ」
「持っている人いるんですね。私だって持ってないんですよ」
 英子は、レコード店の店頭に販売促進用に飾ってあったものだが、三点ぐらいしか作らなかったと言った。


 二人の様子を見ているうちに、津川は次第に妙な気分になってきた。
 歩夢は、合コンで知り合った末田君が旗本英子のオタクで、自分を蔑ろにされたことが不満そうだった。それが、歩夢は英子とは昔からの友達のような調子、まるで同窓会のノリだ。
 仲が良いのは良いことだが、津川は昨夜の夢を思い出さずにはいられなかった。
『死の都』の夢。
 昨夜の夢はオペラ『死の都』の影響があったのだ。津川の観た上演では、原作台本にはない演出があった。パウルが町で見かけたマリエッタを自分の部屋に招く。すると、死んだはずのマリーが現れるのだ。マリーは台詞もなく、歌も歌わないが、これが劇的効果を高める演出になっていた。マリー役には、マリエッタ役のソプラノ歌手に似た女優が起用されていた。
 いま目の前に繰り広げられているのは、『死の都』の舞台、そして、昨夜の夢とまったく同じ光景だった。
 夢の中では『死の都』同様、マリエッタとマリー、よく似た二人が並んで座っていた。マリエッタは野々宮歩夢で、マリーは柿崎英子である。
 津川が見ているのは夢の再現だ。
 マリエッタ、いや、歩夢が誘惑してきて、津川は抱いた・・・そして、歩夢を絞め殺してしまった。
『死の都』の舞台と同じように。
 しかし、『死の都』の中では、パウルの見た夢だったことが明らかにされて舞台が終わる。絞め殺したはすのマリエッタが、赤い傘を忘れたと言って、部屋に戻ってきたところでオペラの幕が下りるのだ。
 これは夢なのか・・・このあと、歩夢を・・・


「えー、そうなんだ。偶然もいいところ、ねえ、津川さん、あなたのおかげよ」
 夢と現実がない交ぜになり、あらぬ妄想していて話を聞き漏らした。
「英子さんね、今日で勤務を交代するんだって。今夜、お兄さんが来るそうよ。だから、こうして会えたのはめっちゃスゴイことっていうわけ」
 柿崎英子は会期の前半だけ受付業務を勤め、兄と入れ替って地元へ帰るという。今日が最後だそうだ。この出会いは、幾つかの偶然が重なった出来事だった。
 かなり長いこと話し込んだようだ。英子の仕事に差し支えてはいけないので、そろそろ帰ることにした。
 柿崎英子が何かプレゼントすると言って歩夢と先に部屋を出た。津川も出ようとして、ふと、壁に掛ったカレンダーが目に入った。そこには【最終日・龍田川氏来訪15時】と書いてある。契約交渉が進行中の社長の名前も龍田川だ。肉筆浮世絵愛好家で、龍田川氏となればおそらく同一人物に違いない。これは副社長の耳に入れるべきだろう。英子のおかげて思わぬ良い情報を手に入れることができた。
 お土産ブースに行ってみると、野々宮歩夢は絵葉書や浮世絵の描かれた手拭いを手にしていた。
「これ、もらっちゃった」
 歩夢は大喜びである。
 柿崎英子がサインペンを走らせ絵葉書にサインした。旗本英子のサインと本名の柿崎英子も添えられている。しかも、令和5年の日付入りだからファンにしてみれば貴重なお宝だ。柿崎英子は津川の持っている図録にもサインすると言い、裏表紙にサラサラと書いて渡した。津川が見ると、サインの横にハートマークを書いてあった。嬉しいが、これでは経費で落とせなくなるかもしれない。
 帰りはエレベーターに乗り込むまで柿崎英子が見送ってくれた。
「あーあ、やっぱり、芸能人は違うわ。全然オーラがあったわ」
 野々宮歩夢がエレベーターの壁に背中をもたれさせた。
「歩夢さんもアイドルに負けずにキラキラ輝いてました」
「そう・・・心臓ドキドキだったよ」
 旗本英子に会っているときはかなり緊張していたのだろう。緊張が解けて今度は気が抜けたという感じだ。
「ああ、写真撮るの忘れてた」
「写真は撮らなくてよかったと思いますよ。彼女は芸能界を引退しているんだから、そっとしておいてあげましょう」
「それもそうね」
「もし、末田君が柿崎英子さんのサインを見たらびっくりするだろう」
「彼には申し訳ないけど、誘われてもお断りするわ」
 どうやら末田君のことは頭からきれいさっぱり消し去ったようだ。
 一階に着いてエレベーターを降りた。
 野々宮歩夢が立ち止まってギャラリーのある上の階を見上げた。
「さっき、お土産コーナーで英子さんと二人だけになったでしょ」
 津川が事務室で龍田川氏来訪のメモ書きを見ていたときのことだ。それで自分だけやや遅れてしまった。
「そのとき、彼女が言ったの。英子さん、来月、結婚するんだって」
「ええっ・・・驚いたなあ」
「結婚したら、しばらくは地元の神戸から離れられないので、今回、東京に来れたのはとても楽しかったそうよ。最後に思わぬハプニングがあって、いい思い出になったって感謝されたわ。まだ、自分のファンがいることも分かって嬉しかったとも言ってた」
「歩夢さんが、受付嬢が旗本英子さんかどうか確認に行くと言ったときは、どうなることかと思ったけど、それが良かったんだな」
「結婚することは、私と津川さんだけの秘密にしておこうね」
 考えてみれば、津川が野々宮歩夢に出会ったのは昨日のことだった。それから、肉筆浮世絵をきっかけにして目まぐるしい展開になった。野々宮歩夢と再会することができたし、思いがけず、元アイドルの旗本英子にも逢えた。しかも、英子は、柿崎英子は結婚するというのである。
 何だか夢の続きを見ているかのようだ。
「歩夢さん、これから『三船屋』へ行きませんか」
「いいよ、私も行きたかったの」
 歩夢が腕を絡めてきた。
「この間、傘を忘れちゃったんだ。取りに行かなきゃ、赤い日傘・・・」
 夢ではなかった。


 彼女は赤い傘を忘れる 終わり


 あとがき


 「彼女は赤い傘を忘れる」をお読みいただきありがとうございました。


 今回はコルンゴルド作曲『死の都』を元に書きました。この『死の都』は日本では上演機会の少ないオペラです。
 このオペラにはさまざまな演出があり、小説を書くに当たって参考にしたのは、原作台本にはないマリーが登場する演出です。また、『死の都』でよく知られているのはマリエッタの歌う、「私に残された幸せは」というアリアです。 
 コルンゴルドはハリウッド映画音楽の基礎を築いた人です。クラシック音楽を活かして、映画音楽の作法、パターン、盛り上げ方などを導入しました。『嵐の青春(キングスロウ/kings row)』の他に、『The sea hawk』『ロビンフッドの冒険』などが知られています。


 参考 DVD 図録


 「 DIE TOTE STADT 」DVD OPUS ARTE 他
・平成5年 東京国立博物館開催 (東京国立博物館所蔵 肉筆浮世絵)図録
・令和3年 岡山県立美術館開催 (熊本県立美術館所蔵 今西コレクション 肉筆浮世絵の世界)図録