連載ー21 美人画廊

 



 美人画廊 21話 第二章(6)ー1


 奈々未は一人で留守番である。孝夫は十時過ぎに銀行に行くといってでかけた。ロンドンの画商に頼んだ版画が届くはずなので留守中に来たら受け取ってくれということだった。
 店番をしながらキッチンやリビングの掃除をした。
 リビング兼書斎には本棚や机、ロッカーがあり、その奥はベッドルームだ。
 重要な書類、通帳や現金はサイドボードの脇の金庫にしまってある。彼が金庫を開けるのを何度も見ている。しかし、ダイヤルの番号は知らないし、鍵が掛かっているので奈々未は中を覗くことはできない。鍵を開けたとしても、今日は銀行に通帳を持っていったので金庫は空だ。
 通帳を見たい。結婚が現実味を帯びてきたので、やはり資産状況が気になる。愛情も大事だけど、財産も同じくらいに大事だ。お金で苦労するのは絶対に嫌だ。
 預金の残高が知りたい、ゼロが幾つ並んでいるのだろう・・・
 孝夫は一時間ほどで帰ってきたが、すぐにリビングに入りバインダーを取ってきた。
「商店街の会合、今日だったのを忘れてた。二時には戻る、ごめん」
 お帰りという間もなく、また出かけていってしまった。
 入れ違いに宅配業者が来た。段ボールの箱に英語のステッカーが貼られていたので、孝夫がロンドンの画商に頼んだ品物だった。
 それきり、お昼になってもお客は来なかった。
 彼が帰ってくるにはまだ一時間以上もある。
 リビングに入ったとき、小型のバッグが置いてあるのが目に入った。孝夫の物だ。急いで出て行ったので忘れたのだろうか。
「・・・あ」
 バッグから銀行の通帳が見えた。
 通帳だわ。
 見たかった預金通帳があった。
 バッグに伸ばした手がかすかに震える。
 まだ正式にプロポーズされたわけではない。結婚してないのに通帳を勝手に見るのは許されないことだ。
 でも、こんなチャンスはそう巡っては来ない・・・
 チャンスだ。二時には帰ると言っていたから時間はたっぷりある。
 奈々未は念のためバッグと通帳をスマホで写した。通帳を見た後で、前と同じ位置に戻さなければならない。
 それから通帳を手に取った。
 通帳は四冊あった。
 新堀画廊の通帳が二冊、他の二冊は吉井孝夫とアパートの名義になっている。
 少なくとも一冊につき三百万円、合計で一千万円が希望金額だ。これ以下なら、プロポーズを断って同棲も解消する。
 画廊名義の通帳の表紙を捲る・・・
「私が見たかったのはコレよ」
 が、そこで手を止めた。
 以前の奈々未であれば、交際相手に「貯金見せてよ」と気軽に尋ねたものだった。しかし、今は違う。吉井孝夫とは真剣に結婚を考えている。
 孝夫はいつも優しいし、この間は撮影のときに詐欺だと喚いた男から守ってくれた。家事が苦手な奈々未に代わって洗濯も掃除も、ご飯まで作ってくれる。もう諦めたのか、朝寝坊しても許してくれるし、ゴミ出しも進んでやってくれる。
 孝夫は奈々未を愛してくれる、奈々未も彼のことが好きだから結婚するのだ。財産が目当てで結婚するのではない。愛情だ。
 奈々未は通帳を見るのを諦めて元のようにバッグに戻した。
 これで良かったと思う。通帳を見て預金残高を調べたりしたら、おそらくお金だけが目当ての結婚生活になってしまうことだろう。孝夫からどれだけお金を吸い取れるか、そこにしか価値を見出せなくなったに違いない。
 彼とめぐり逢って、それ以前とは随分変わってきた。なにしろ、孝夫は真面目で、画商というよりは学者先生だ。影響されて美術関係の本も読むようになった。少しでも彼を理解しようという気になっているのだった。
 書斎のテーブルに原稿が広げてあった。英文学者の樋口先生と共同で書いている世紀末絵画に関する原稿だろう。印字された文章は赤ペンであちこち直してあった。余白には『イプセン、人形の家、ヘッダ・ガーブレル』と丸で囲った書き込みがあり、文章に挿入しようとしたのか、そこから矢印が伸びている。矢印の線には×とか?マークが付けられているところをみると、まだ修正中なのだろう。
 ヘッダ・ガーブレルが書名か人名か分からないが、人形の家は知っている。横浜の山下公園のすぐ近くに人形の家という博物館があって、そこから港の見える丘公園や山手、元町まで歩いたものだった。
 今度、デートに行きたいな・・・


 テーブルにやや大きめの封筒が置かれていた。証券会社からのものだった。中の手紙は封筒から出されてある。
 株や投資のダイレクトメールかと思って手に取ってみたが、外国の預金証書のようだった。どうやら孝夫は外国の銀行に預金しているらしい。版画を買うためにロンドンの画商と取引するくらいだからそれも頷ける。
 通帳を開くのとはわけが違うのだが、彼の資産を垣間見ることに変わりはない。良心が咎めた。
 見たいわ。
 書類を見ていく。ゼロが幾つか並んでいた。
「なんだ、二十万か・・・」
 書かれていた金額を見てがっかりした。
 一か月の給料にも満たない金額である。
 外国に預金するのは、生活に余裕がある資産家や投資家であろう。それが、たったの二十万とあっては、あまりにもケチな金額だ。きっと、証券会社の知り合いに頼まれ、断り切れずに預金したのに違いない。これでは彼の通帳の残高もたかが知れている。むしろ見なくて良かったかもしれない。
「はあーあ」
 大きなため息をつくと、脱力感に襲われ現実に引き戻される思いがしてきた。
 書きかけの原稿に目をやる。
 こんなめんどくさい原稿ばっかり書いて、何が面白いんだろう。どっかに隠しちゃおうかな、たぶん真っ青になって探すね。そうしたら言ってやるのよ、私と原稿のどっちが大事なのって。あの人、昨日も、正月のお節料理の練習だとか言って、サトイモを六角形に剝いてた。おまけに面取りして、この方が煮崩れしないんだとか。今どき、お節料理を手作りするなんてあり得ない。たいてい買うでしょ。京都老舗料亭監修、二段重ねで伊勢エビとかフォアグラが入って、金箔が乗っている、十万円くらいする豪華なお節。それが、コンニャクは真ん中に切れ目を入れて捩じるんだなんて、絶対に手伝わないから。そもそも、正月が面倒。親戚とか来たりしたら最悪だわ。私は女優なんだから、芸能人っていえば正月はハワイでしょ。
 ああ、ハワイへ行きたい。1ドル、幾らかなあ・・・あれ?


 *本日もご訪問くださりありがとうございます。次回で完結します。