連載ー10 美人画廊

 



 美人画廊 10話 第一章(6)ー1


 奈々未が以前働いていたイベントの会社から、未払い分の給料を支払うという電話が入った。
 社長である元カレの木山康司と別れ、会社にも行きづらくなって、いつの間にか辞めた格好になっていた。それで、給料のこともうやむやになっていたのだ。二十万円くらい残っていたはずだ。奈々未は水曜日に取りに行くと返事した。水、木と画廊の仕事は連休をもらっている。


 給料を受け取りに行くのは午後からにして、横浜駅で愛理と会ってお昼を食べた。
「吉井孝夫とうまくやっているの」
「そうねえ、ボチボチかな」
「何か分った? 財産のこと」
「店の売り上げはたかが知れてる・・・でも、その割には意外と気前いいよ。そこが不思議なんだよね」
 奈々未の前に豆腐ハンバーグの野菜餡かけが運ばれてきた。愛理はバンバンジー定食だ。
「彼の部屋に行ったりとかはしないの」
「ゼンゼン、そんな気配これっぽちもないみたいだよ。理想の女性だなんて言われちゃった」
「詐欺だってバレても、そんなこと言ってるなんて!」
「真面目で、優しくて、性格は合格点・・・これと同じよ」
 奈々未は豆腐ハンバーグを口に入れた。
「すっかりヘルシーだね。お互い肉食系だったのに」
 愛理が言うのはオトコのことだ。
「こってりした料理、牛すじの煮込みとかはもう食べないの?」
「そうでもないよ、実は、一昨日、ちょこっと誘ってみたんだ」
 奈々未は太ももをチラつかせて孝夫を誘惑したが、ゼンゼン乗ってこなかったことを話した。
「彼を食べちゃおうとしたんだけど、やっぱ、詐欺女だからって警戒してるのかな」 
「おまけにホスト狂いしちゃったもんね・・・」愛理は何かを思い出してニヤニヤと笑う。
「あの彼たち何やってんのかな。奈々未がぞっこんだったのは、火乃世ちゃん」
「やめて、もう終わったことです」
 奈々未は火乃世というホストに惚れていて、彼に気に入られようとしてキャバ嬢の稼ぎを全部貢いだ。火乃世はナースのコスプレが好みだったので、奈々未はピンクのナース服で燃え上がったものだ。
「孝夫さんにはゼッタイ秘密にしておきたい、知られたらそれこそヤバいわ。マジで嫌われる」 
「じゃあ、手料理作ってあげたら。絶対喜ぶよ、家庭的なのに弱いから、男は」
「ダメだよ、料理なんか、やったことないもん」
 むしろ孝夫の方が料理は得意だといえる。お昼はコンビニ弁当を買ってくるが、その他に、ワカメとキュウリの酢の物とか、筍の煮物を作ってくれたりするのだ。学生時代に飲食店でアルバイトをしたいたそうで、お店の味のようにおいしかった。
 家事が苦手な奈々未よりはいい主夫になるだろう。


 店を出て駅に向かった。ところがJR線が全てストップしていた。奈々未は会社のある石川町へ、愛理は品川へ行くのである。愛理は京浜急行に乗るという。奈々未は市営地下鉄で関内まで行ってそこから歩くことにした。
 市営地下鉄関内駅から横浜スタジアム方面へと歩いた。横浜スタジアムは来年、2020年の東京オリンピックでソフトボールと野球の会場になる。改修工事を終えて新たに三階席が設けられていた。
 会社に顔を出すということは、元カレの木下康司に会う可能性もあるのだ。心の隅では、まだカレを諦めてはいない。他の女性に奪われたなんて絶対に認めたくなかった。相手の女性はチラッと見ただけだが、顔では自分が勝っていた。
 映画に出ないかとスカウトされたくらいの美人なんだ、女優なんだ。
 誰があんなオンナに・・・でも、吉井孝夫もいるしなあ・・・


 あれこれ考えごとをしていて曲がり角を間違えてしまった。方向としては合っているので少し遠回りになるけどそのまま歩くことにした。
 この辺りは寿町という地区である。道を一本入るとそれまでの賑わいがすっかり変わり、右も左も簡易宿泊所ばかりになる。狭い敷地に八階、十階建てのビルが何棟も建っているのだ。簡易宿泊所は、昔は「ドヤ」と呼ばれていた。日雇い労働者の町だったのである。それが建て替えが進み、くすんだ灰色の建物は姿を消して、現代風の明るい近代的なビルに変わった。ホテル形式の施設もある。
 会社の若い男性社員が終電を逃して簡易宿泊所を利用したことがあった。素泊まりで一泊二千円、部屋は三畳間ほどしかなく、ベッドとテレビがあるだけだったそうだ。
 この町に住みついているのは何らかの事情を抱えている人たちばかりだ。高齢者だったり、家を出て失踪した人、中には警察の厄介になった人もいるらしい。いつだったか、炊き出しに並ぶ長い行列を見たことがあった。高齢者に混じって、三十代くらいの男性もいた。冬の寒い日、みな押し黙ってじっと炊き出しの順番を待っていた。
 昼間から酒を飲んでいる人や、道路に倒れ込んでいる人も見られる。女性が一人で歩くのには勇気がいるが、頻繁に警官の姿を見かけるので、さほど不安を感じることはない。みな、ここで問題を起こしたら、行き先がないことを知っているのだ。
 周辺は、寿町、長者町、羽衣町、白妙町など、おめでたい名前や優雅な町名が付けられている。寿にも長者にも無縁な人たちが住んでいるのはなんとも皮肉なことだ。
 救いといえるのは、介護事業所が目立つようになってきたことだろうか。高齢率が高く、簡易宿泊所はバリアフリーになった。
 日雇いの町から福祉の町になってきたのである。
 ここの町と比べると、新堀画廊でイギリスの世紀末版画を鑑賞し、アンティークの古書籍を手に取って眺めているのが全くの別世界に思えてしまう。画廊の社長の吉井孝夫や英文学者の樋口先生は、同じ横浜市内にこんな場所があることを知っているのだろうか。たぶん知らないだろう。あるいは気が付かないふりをしているのだ。
 吉井孝夫は両親を早くに亡くして、その点では大変な苦労をしたことと思う。だが、人間としては甘い。詐欺と分かっても六十万円を出すし、奈々未が誘っても押し倒そうとはしなかった。世間知らずのお坊ちゃまだ。男なら押し倒してみろと言いたくなる。
 奈々未は生きていくためには詐欺でもするし、パパ活だってやってきた。やれることはなんでもやっているのだ。


 会社の入っているビルに着いた。
 一階の管理事務所にはビルの大家がいる。奈々未はこの大家が苦手だった。何度も舐めるような視線で見られたことがある。
 エレベーターで三階に上がると、すぐそこがイベント会社「オフィス木下」である。廊下には段ボール箱や機材がいくつも置かれていた。レンタルした機材だ。奈々未もたびたび業者に手配したり、物品の返却に立ち会ったことがある。
 廊下で大きく息を吐いてノックした。
「オフィス木下」の事務所には社員が三人いるだけでひっそりしていた。奈々未が顔を知っているのは経理の社員一人だけだった。電話を掛けてきたのもその社員だった。事務のメンバーも入れ替わっているとみえる。


 経理の社員がすぐに手続きをしてくれ、奈々未は給料が入った封筒を受け取った。
 十万円入っていた。確か二十万円くらいは残っていたと思うが、これではやっと半額だ。
「他の社員も給料が遅れているんで、残りの分はまた来月にでも来てください」
「みんなもまだ貰ってないの、景気悪いんだ」
「例のライブハウスの一件がね、足を引っ張っていて・・・」経理の社員は、慌てて「イベントのほうは順調なんですけど」と付け加えた。
 木下康司がライブハウスの経営に手を伸ばしたことは会社の同僚から聞いていた。ゴールデンウイークに合わせて大々的にオープンしようとしたのだが、メインのバンドにドタキャンされた。テレビにも出るくらいの人気バンドだったが、それが出演しないのではいきなり躓いてしまったのだそうだ。内装や設備に凝っていたというから、借金をしたのかもしれない。それで社員の給料まで遅配になったのだろう。
 受け取ったのが十万円ではがっかりしたが、これもやむを得ない。奈々未は社長の木下康司の恋人という、コネで雇われていたようなものだった。
 来月も会社に来れるのなら、康司に会えるチャンスがあると思うことにした。
 経理の社員は、これから銀行に行かなければならないと言った。時間は二時半、銀行の閉店ギリギリだ。
 他の二人もイベントの下見があると言って出ていったので、奈々未は一人で取り残される形になってしまった。経理の担当者から、レンタルした機材を受け取りに来るので立ち会ってくれと言われたのだ。業者はすぐに来るというのだが、事務所のカギを掛けられてしまった。廊下で待っているしかない。
 廊下に置かれた段ボール箱には紅白幕、拡声器、金属のポールなどが置かれていた。バリバリ仕事をしていた頃を思い出して懐かしくなった。
 レンタル業者は10分と経たずにやってきた。
 機材や幾つかの箱を確認して、奈々未にサインをしてくれと言う。小さな紙袋が残っていたが、業者は袋を開けてレンタルした品物ではないと首を振った。紙袋の中身は衣服だそうだ。
 奈々未は【河田】とサインし、控えの紙を事務所の郵便受けに押し込んだ。
 その後で気が付いた。自分のサインのある紙が会社に残るのだ。それが康司の目に留まり、また会えることもあるかもしれない。
 すぐに帰ろうかと思ったが、廊下に残された紙袋が気になったので中を覗いた。袋の中には男性物のジャケットが入っている。見覚えのあるネクタイがあった。元カレ、康司の服だった。顔を近づけて匂いを嗅いだ。
 ひょっとして、彼がこれを取りに来たりして・・・
 そこへ、カツ、カツと階段を上がってくる足音が聞こえた。


 * このあと、奈々未さんに大ピンチが・・・