連載ー7 美人画廊

 



 美人画廊 7話 第一章 (4)


 奈々未は冷蔵庫を開けて缶ビールを取り出した。ベッドに座りゴクリと飲む。テレビではお笑い番組をやっていた。お笑い芸人の運動会が面白くて、キッキッと笑った。
 時計を見たらまだ夜の8時半だった。こんな早い時間に部屋でテレビを見るなんて久し振りである。木山康司の仕事、イベントの仕事を手伝っていたときは8時頃といえば、ライブや展示会の真っ最中だった。それがこの時間に、女が一人、胡坐をかいてビールを飲んでいるのだから虚しくなってくる。
 ポテトチップスの袋が空になった。底に残ったカケラを摘まんで口に入れ、ついでに指を舐める。ビールにポテトチップス、お腹もポッコリするはずだ。
 まさか、妊娠?
 元カレの康司と最後に抱き合ったのはいつだったか。今年の始め、二月のバレンタインデーの頃だった。
 はあ、とため息をついた。
 そうだった。会社から受け取っていない給料が残っていたのだった。二十万円くらいは溜まっているはずだ。捨てられた上に、給料を貰えないなんて、なんでこういう不幸が重なるのだろう。
 もし、妊娠していたらどうしよう・・・
 新堀画廊の吉井孝夫に、あなたの子供なんですと告白しようか。
 ダメだろうなあ、まだ、手も繋いでもいないのに。
    *****
 奈々未は火曜日から新堀画廊での仕事を再開した。
 正式に採用されたので履歴書を持って行った。5月から新しい元号「令和」になったのに、「平成」と書いてしまったので二重線で訂正した。履歴書の職歴欄にはアパレルメーカー、イベント会社勤務だけと書いておいた。キャバ嬢の黒歴史はもちろん、詐欺まがいの行為をしているのも「職業」ではないから省略した。年齢は二つ、三つ適当に誤魔化した。
 開店前に仕事の内容を確認する。
 週に三日、または四日の勤務で、時給は1200円。普段は私服でもよいが、作品展のあるときはリクルートスーツか、顧客が指定した制服を着るということだ。
 画廊では今週末に陶器の展覧会が入っていた。金曜の午後から展示の準備がある。それまではラファエル前派の版画を展示しておくという説明だった。
 採用初日は平日とあって、土日に比べてお店は静かだった。それでも、午前中に一枚、お昼にもう一枚版画を売った。二枚とも五千円前後の風景で、インテリア向けに作られた商品だ。
 画廊に二人きりだと息が詰まってしまいそうになる。奈々未は商店街へ買い物に出かけてみた。本日のノルマは達成したようなものだ。適当にサボっても社長の吉井孝夫は何も言わなかった。


 地下鉄の駅の方へ歩き、車通りに沿って左へ歩く。ソバ屋、カレー屋、ガスト、コメダ珈琲店、それからリラクゼーションサロンに学習塾、一通り何でもあるが、これといって特徴のない商店街だ。奈々未はアクセサリーの店を覗いたり、ドラッグストアでメイク用品の新商品を見た。そろそろ帰ろうとしたところで、美容室の池田さんにバッタリ会ってしまった。今日は火曜日で美容室は休みだったのだ。
「言ったでしょう、すごい美人だって」
 池田さんがスーパーの店先でそう言うものだから、買い物に来ていたオバサンたちに好奇の目で見られた。
「奈々未さんは芸能人なのよ」
 芸能人だと決めつけられた。映画に出ないかと誘われたことが知れ渡ってしまったのだろうか。その情報を流した犯人は吉井孝夫だ。このオバサンにちょっと言っただけで、あることないこと何倍にもなることぐらい分かっているはずである。
 すると、スーパーの店長が「美人割り」と言って、レタスをひと玉くれた。割り引きではなくタダだった。おまけに肉屋ではコロッケを、パン屋ではメロンパンとタイ焼きをもらった。パン屋は商店街の副会長、肉屋は事業局長だそうである。申し訳ないのでレタスとコロッケは池田さんにあげた。
 画廊に戻って、商店街で美容室の池田さんに捕まって長話をしたので遅くなったと言い訳をした。タダでもらったタイ焼きを見せると喜んでくれた。孝夫は甘いものが好きらしい。
 そういえば、店を閉めてコーヒーとお菓子で寛ぐことはあったが、まだ食事は共にしていなかった。
「池田さんに映画の話したの孝夫さん? 商店街の真ん中で言われちゃった」
 奈々未が尋ねると、孝夫は首を振った。「情報解禁になってないからね」
 どうやら池田さんが勝手思い込んでいるだけのようだ。


  仕事の終わりに念入りに店内を掃除した。明日の水曜日は画廊の定休日なのである。
 孝夫は「掃除をお願いしてもいいでしょうか」と頭を下げた。頼まれたので掃除することにした。
 テーブルを拭こうとして屈んだとたん、腰にズシンと痛みが走った。二、三年前から腰痛が慢性化している。膝をついて腰に手をやり「どっこいしょ」と立ち上がった。
 奈々未は掃除の手を止め、バーン=ジョーンズの『ピグマリオン【成就】』を見ながら孝夫に尋ねた。
「この絵の女性は彫刻なんですってね」
「『ピグマリオン』は四枚の絵画の連作で、これは最後の場面、彫像が生命を吹き込まれて動き出すところです」
 孝夫が言うには、『ピグマリオン』のストーリーは、彫刻家が自分の製作した女性像に恋をし、美の神ヴィーナスがその願いを聞き届けて彫像を生きた女性に変えるという物語だそうである。【成就】は彫刻家の願いが叶ったシーンである。
 従って、四枚目の【成就】の女性は彫像ではなく、生身の肉体を持つ美しい女性として描かれている。
「ピグマリオンの話は映画の「マイ・フェア・レディ」の原作とも言われてましてね」
「へえ、そうなんだ。オードリーヘップバーンの映画でしょう。見たことある」
「花売りの娘をレディにするという話。ヴィクトリア朝のイギリスには若い女性に教育を施してステキなレディに成長させる、そういうことを好む男性たちがいたらしい」
「分かるような気がするわ」
 まだ康司と出会う前だったが、奈々未は六十歳を越した男を相手にパパ活したことがあった。ところが、その男性が糖尿病か何かで入院してしまい、パパ活は二か月で終わった。それと似ている。
 男性が若い女性に教育を施すなどと聞かされて、つい不謹慎なことを思い浮かべてしまった。
「この絵には別の意味もあって、彫刻家は現実の女性にはあまり惹かれないというか、むしろ幻滅していて、それで理想の女性として彫刻を作ったというわけです」
 これも納得できる。学生の頃、理想の女性を求め過ぎて現実の女性には興味を持てない男と付き合ったのを思い出した。その彼は、イケメンで優しくてお金もありそうだった。下着姿が見たいと言ったので、目の前でナマ着替えを見せてあげたのだが、写真を撮るだけでそれ以上は何もされなかった。怖くてすぐに別れた。
 吉井孝夫もその時の男と同じような匂いがする。
 少し誘いをかけてみたくなった。
「ねえ、二人でこの絵のポーズしてみない?」
 ピグマリオンの絵と同じような恰好をしようと誘った。
 奈々未が女性像になって、彫刻家の孝夫を足元に跪かせた。この立ち位置は完全な女性上位だ。
 版画に描かれた女性は一糸まとわぬヌード姿である。
「せっかくだから、服を脱いで、この女性みたいに裸になりましょうか」
「いえ、その、そこまでしてくれなくてもいいんです」
「あら、そう・・・遠慮しなくていいのよ。これもお仕事なんだから」
 孝夫がおたおたするのが面白くてスカートを捲ってみせた。
「こんな感じかなあ」
 奈々未は身体を正面に向け、顔をやや右側に向けた。孝夫には膝を付いてもらい、奈々未の手を軽く握らせた。これで絵の中の彫刻家と女性の位置とそっくりになったのだが、どこかしっくりこない気がした。画中と同じ位置では二人の視線は交わらないのだ。愛し合う男と女はお互いに見つめ合うのが普通だというのに。
「こっちを見てください。孝夫さん、顔を上げて」
 孝夫は顔を上げたが、それは一瞬だけで、奈々未と目が合うとすぐに下を向いてしまった。
「うふ、ちゃんと見て、奈々未を見てよ」
 今度は孝夫がしっかり顔を上げて姿勢をキープした。
 目と目が合った、その瞬間、ピピッときた。
 そのまましばらく見つめ合う。恋人同士のようにいい感じになった。
「ああ、孝夫さん・・・どうですかぁ、私」
「はあ、あの、美しい、まさしく理想の女性です」
 孝夫はピグマリオンの如く、奈々未を理想の女性と褒めたたえた。
 理想の女性だなんて言われるのは面映ゆい。
「理想ねえ。ホントの奈々未を知らないから、そう言うんじゃない・・・」
 実はつい最近、男に捨てられたばかりなんです。パパ活の経験もあります。キャバ嬢だったときにはホストに貢ぎました。誘われたら断らない主義なんですなどと言ったら、どういう反応をするだろう。
 詐欺もやってます・・・これはもうバレてる。
「奈々未さんのこと、もっと良く知りたいよ」
「だけどさあ、アラサーでしょ。私の現実を知ったら、こんなもんかって、がっかりするかも・・・うつつ」
 奈々未は思わず腰に手を当てて顔を歪めた。絵の中の女性のポーズを真似して中途半端な姿勢を続けていたら腰が痛くなった。
「どうかしましたか」
「腰が痛い・・・腰痛持ちなんです。ごめんね、これが現実なの」


 水曜日は画廊の定休日である。
 奈々未は画廊から借りてきたラファエル前派や世紀末絵画に関する本を読んだ。新堀画廊に勤めるからには美術の勉強も欠かせない。
 ロセッティやバーン=ジョーンズが活躍していた1850年から70年ごろというのは、イギリスのヴィクトリア朝時代にあたる。
 ラファエル前派のような、キリスト教や神話、伝説に題材を求める絵画は「象徴派」と呼ばれている。絵の中に描かれている事柄には何らかの意味があり、宗教や神話の知識がないと理解するのは難しい。ほぼ同時代、フランスの象徴派にはギュスターヴ・モローがいた。
 専門的になってきたので大きな欠伸をした。
 ラファエル前派の絵画は女性像が多く、しかも、モデルを特定できるという。モデルは揃いも揃って美人だ。『魔法にかけられたマーリン』に描かれた女性は十頭身で、振り向いた横顔がダイアナ妃に似ている。モデルはマリア・ザンバコという女性だ。
 ロセッティの『プロセルピナ』も美しい。こちらはジェイン・モリスがモデルだ。『プロセルピナ』の女性は左半身をこちらに向け、左手でザクロを持ち右手を添えている。ザクロには一口齧った跡がある。その顔は美しくもどこか哀しいように見えた。
 この絵のカラー版のポスターが吉井画廊に掛かっていた。 
 奈々未は解説文を読んだ。
 『全能神ゼウスの娘でありながら、プロセルピナは冥界の王の妻になり、この世と死の世界を半年ずつ行き来しなければならない運命に・・・』
 ギリシャ神話の世界の話である。ザクロを齧っているのは、冥界に身を投じたことの象徴だろう。プロセルピナは二人の男性の間を行き来していたというのだ。
 今までに何度ザクロを齧ったことだろう。二人の男と同時に付き合って、あっちの男、こっちの男と齧りまくった。
 キャバ嬢のときは、稼ぎをすべてホストに貢いだ。
 ホストの火乃世・・・どうしてるかなあ。
 いずれにしろ、黒歴史だ。社長の吉井孝夫には絶対に知られたくない。
 パラパラと飛ばし読みした。
 『唯美主義、エステティックともいう・・・』
 エステティック、唯美主義という文字が目に止まった。
 象徴派、あるいはヴィクトリア朝の絵画には、ただ見た目の美しさだけを追及した唯美主義という傾向があるという。
 唯美主義は、英語ではエステティックだった。
 化粧にネイルに脱毛。エステサロンのことだと思えば絵画の理解も深まった。
 なんだ、エステのことか。それなら任せて、明日は念入りに化粧していくから。


 *本日もお読みいただきありがとうございました。