連載ー4 美人画廊




美人画廊 4話 第一章 (2)


 金曜日、河田奈々未は新堀画廊に行ってみた。三日間だけアルバイトをすることにしたのだ。マンションからは地下鉄で7駅、隣のまた隣の区である。思いのほか近距離だった。
 改札を抜け地上に出ると大きな通りがあった。商店街が続いている。改札の右にあるコンビニの角を曲がり、しばらく歩くと店は減って住宅地になった。画廊まではこの道を一直線である。美容室が見えてきた。その向かいが新堀画廊だ。


 社長の吉井孝夫が画廊を案内してくれた。
 入り口を入ったところが版画の展示してあるスペース。その隣の部屋には緩衝材や包装用品などが置かれていた。本棚もある。スタッフルーム兼倉庫という感じだ。スタッフルームの一角にはドアがあり、そこからも出入りできるようになっている。比較的きれいに物が置いてあるところを見ると社長は几帳面な性格なのだろう。
 休憩するときはそのソファでと言われた。ソファの上の壁にはブラジリエの草原の馬の版画が掛かっている。先日、奈々未が強引に売り付けたものだが、吉井孝夫は気に入ってくれたようだ。そうでなければ倉庫の奥に仕舞いこんでいるだろう。
 さらにカーテンで仕切られた奥にも部屋があり、そこはキッチンやリビングだった。
「二階は客間と倉庫です」孝夫が上を指差した。
 例の部屋だ。そこから奈々未と愛理が一緒にいるところを見ていたわけだ。二階には近づきたくもない。
 両親の住まいだったのを改築して画廊にしたということである。それで、すぐ近くにアパートの部屋と駐車場を借りているのだろう。孝夫は一人暮らしのようである。
 仕事の内容はおもに来客の対応で、版画を見に来る人にはコーヒーを出して接待する。ラックにある版画が売れた場合は梱包材で包むと言われた。三日で五万円のバイト料にしては簡単で楽な仕事だった。
 やはり、仕事が終わったらベッドへ押し倒されるに違いない。吉井孝夫は遊んでいる風には見えず、女性の扱いも慣れているとは思えなかった。それくらいは瞬時に見抜いている。どんな口実を付けてアパートの部屋に連れ込もうというのだろうか。


 それから画廊に展示されている版画の説明を受けた。
 壁に掛かった版画はほとんど全てが英国のラファエル前派の作品だ。19世紀末に製作された版画である。
 版画とは思えないくらい精密に描いてあるので、そこを尋ねると、フォトグラビュールといい、写真製版を使った版画だということだった。写真を使っているので元の絵画そっくりに再現できる。それでも、19世紀末なので、フィルムカメラ以前の乾板写真、湿式写真の時代である。フォトグラビュール版画はカラー印刷、グラビア印刷が開発される前の複製技術なのだった。
「フォトグラビュール、初めて聞いたわ」
 奈々未は、そのような写真製版の技法は知らなかったし、なにより、今から百年以上も前の作品であることに感心した。
 白と黒のモノクロ画面の版画を順番に版画を眺めていく。
 入り口の左手の壁に掛かっているのは、バーン=ジョーンズの『ヴィーナスの鏡』。荒野の小さな湖の周りに佇む女性たちがいる。いずれも、ゆったりとした服を着ていて、湖面には彼女たちの姿や顔が映っている。
 その隣は螺旋階段を降りてくる女性たちの版画だ。十五人くらいいるだろうか、バイオリンやハープなどの楽器を手にしている。女性たちが微妙に重なり合っていて、なだらかな曲線を描いている。こちらは『黄金の階段』という題名だ。
 バーン=ジョーンの版画が多いのは、フォトグラビュールによる作品集が出版されているからである。
 次は『ピグマリオン【成就】』。これもバーン=ジョーンズの作品である。男性が女性の前に膝を付いて手を取っている構図だ。女性の姿勢がぎごちなく、表情が乏しい、しかも、女性と男性の視線がどこか微妙にズレている感じがした。
『魔法にかけられるマーリン』
 この版画のことはよく覚えている。ブラジリエを売り込みにきたときに気になった版画だった。
 舞台は森の中、スタイルのいい女性が立ち、本を広げて右の後ろを振り向いている。そこには満開の大木の根元に寄りかかった男性が女性を見上げている場面である。
 それにしてもきれいな顔立ちの女性である。イギリスだから、故ダイアナ妃を思い起こさせるような横顔だ。
 奈々未は、男が魔法使いのマーリンであり、女性を呼び止めて魔法を掛けて誘っているのだろうと思った。だが、孝夫の説明によるとその逆で、魔法を掛けているのは女性の方、魔法使いのマーリンはすでに魔法によって生気を失っているのだそうだ。
「男性がナンパしているのかと思ったわ。反対に、女性の方が誘惑しているのね」
「本を見ながら覚えたての魔法を掛けているんです」
「聞いてみないと分からないものですね」
 なるほど、絵画には物語があるのだ。
「これは『欺かれるマーリン』とも呼ばれているんです」
 新堀画廊に売り込みに来たときのことを思い出した。帰りがけに奈々未が振り向くと、吉井孝夫がソファに横たわっていた。それは、まるで、『魔法にかけられるマーリン』、いや、『欺かれるマーリン』そっくりの格好だった。
 あのとき、奈々未は詐欺には失敗したが、孝夫を魔法に掛け、欺いていたのだ・・・
 その隣は空中に首が浮かんでいて女性が指差している版画だった。ギュスターヴ・モローの『サロメ』。そういえば、どこかで見た覚えがあったかもしれない。
「これは銅版画で、ルーブル美術館の原版を使って印刷している、いわば、お土産のようなものです。でも、銅版は摩耗してしまうので、摺るのに限度があり、めったに出回りません」
 版画の枠であるマットという厚紙で隠れた部分に、「後摺り」を示すスタンプがあるそうだ。
 右側の壁面には、カラーの版画も展示されていた。バーン=ジョーンズ作『フラワーブック』。こちらは20センチほどの丸い画面である。水彩画のように見える。
 その隣の、百合とバラの花をモチーフにした版画は、ウォルター・クレインの手によるものだそうである。
 なるほど、これは小さな美術館だ。


 画廊は11時開店である。
 孝夫は隣の部屋、スタッフルーム兼倉庫で版画の整理を始めた。
 奈々未は展示スペースの奥のテーブルに座った。パソコン画面には新堀画廊のホームページが表示されている。店番をしながら、これを見て勉強しておけというのだろう。
 業務内容を見ると、新堀画廊は貸し画廊として作家の個展もおこなっている。趣味の版画の展示だけではなかった。ラファエル前派の版画を展示するのは年に数回で、その期間、二週間くらい飾っているようだ。日程表を見ると、月末に陶器展が、来月には版画展が予定されていた。他には、若手版画家展があったが、こちらはすでに終了していた。貸し画廊としてもそれなりに忙しいようである。他にも、版画のレンタルもしていると書かれてあった。
 ホームページにも飽きてきた。動画でも見ようかと思っていたらお客が来た。初めてのお客だ。孝夫よりと同じくらいか、やや年上の男性である。
 立ち止まって『ピグマリオン【成就】』を見ているので、ラファエル前派の版画を見にきたお客であろう。奈々未に気が付くと、驚いたようにお辞儀をした。奈々未が社長は隣だと言うと、かつて知ったる我が家といった様子で事務室に入っていった。
 コーヒーを淹れてまた席に戻る。わざわざバイトの必要もないくらいだ。これくらいは孝夫が自分でやれよと思った。


 バイト初日、版画が二枚売れた。
 お客様には無理に勧めないようにと言われていたので黙って見ているだけにした。そうしたら、ラックにある販売用の版画の中から、海岸の夕日を描いた版画を買っていった。初めてなので孝夫に手伝ってもらいながら、柔らかなボール紙で覆い、プチプチの緩衝材でくるみ、取っ手を貼り付けた。
 それからもう一枚、八千円のミロの版画が売れた。こちらはカラー印刷の物だ。
「奈々未さんに来てもらって良かった、一日に二枚も売れるなんてめったにないから」
 孝夫がしきりに感心しているので、売り込むコツを教えてあげた。
「ほら、買ってくれたのは男の人だったでしょう。お客の側へピッタリ寄って版画の説明しながら、こんな風に・・・」
 と身体をすり寄せる。
「購買意欲をかき立ててあげただけ」
「あわ」
「孝夫さんにも、チラッと太もも見せてあげたじゃない。それで六十万円も出してくれたんでしょう。一万円くらいのものを買わせるなんて簡単よ」


 6時過ぎ、閉店間際にお客さんが来た。どこかで見たことがあるなと思ったら、向いにある美容室の奥さんだった。奈々未がラッセンの版画を持ち込んだときに、運ぶのを手伝うと言ってくれた人だ。
 パソコンに向かい、なにやら作業をしていた孝夫が、「池田さん」と立ち上がった。「商店街の件ですか」「違うわよ、この人」。池田さんは奈々未に関心がある様子だ
「初めまして、奈々未と申します」 
 ご近所さんには初対面が大事なので丁寧な言葉遣いをした。
 美容室の池田さんは挨拶もそこそこに「若い女の人が出入りしてたんで気になってたのよ」と言った。
 しっかり見られていたのだ。美容室はヒマらしい。
「そしたら、まあ、あんた、間近で見たら、すごい美人ね。一般人じゃないでしょ、モデルか芸能人?」
「芸能人だなんて、ただのバイトです」
「社長のお嫁さんってこと、そうなんでしょう、社長」
「いえ、奈々未さんには受付とか販売を手伝ってもらってまして」
「てっきり、お嫁さんかと思った。それじゃあ、あなた、うちの甥なんかどうかしら、こんな美人がお嫁さんに来てくれたらねえ」
 早口で一気にまくしたてた。いきなり甥の嫁と言われても返事に窮する。
 池田さんの甥というのは二十五歳になったばかりだそうだ。奈々未はアラサーなんですとやんわり断った。
「あらまあ、三十だなんて、ゼンゼン見えないわよ。若いし、美人だし、甥にピッタリだと思ったのに。残念、残念」
 池田さんは残念だと言いながら、その甥の話を続けた。
 二十五歳になっても、某アイドルグループのメンバー「今野レイナ」の大ファンで、部屋にはポスターが貼ってあり、遠くまで握手会に行く・・・柔道三段、図体ばかり大きくて、困っちゃうと嘆いた。
「早くいい相手を見つけて欲しいんだけど・・・仕事何してると思う?」
「さあ、なんでしょう」
「交番のお巡りさん、甥は警察官なのよ」
 警官と聞いて奈々未はギクリとした。詐欺師の天敵ではないか。
「お巡りさんですか、それは、お堅い職業で・・・」
 努めて平静を装う。
「でも、犯人を捕まえようとして格闘になったら危ないんじゃないですか」
「それが、体に似合わずパソコンが得意で、将来は知能犯の捜査員を目指しているのよ。強盗よりもオレオレ詐欺を逮捕したいんだって。詐欺はダメよねえ」
 ますます弱った。新堀画廊の店の前には詐欺を捕まえようと意気込む警察官がいるのである。犯人を追いかけるより、アイドルを追っかけていればいいのだ。
「そうだ、社長、画廊のホームページ作るとき、うちの甥が、大ちゃんが手伝ったんだよね」
 池田さんの甥は大ちゃんというらしい。奈々未が見ていた吉井画廊のホームページは大ちゃんの作だった。
「ええ、手伝うというか、全部やってくれました」
「ほらね」と池田さんは自分の手柄のように手をパチンと叩いた。「奈々未さんの写真をアップしてあげなさいよ。またお客さんが増えるわよ」
 詐欺師がホームページに顔を晒すなんて、まるで交番に張り出してある指名手配犯のポスターみたいではないか。
「そうだ、こんな美人のお嫁さんが来たって、宣伝してこなくちゃ。私に任せなさい、商店街の婦人局長だからね。こりゃ、忙しくなるわ」
 美容室の池田さんは、「今度、甥を連れてくるから」と言って帰っていった。


「ちょっと、社長。あんた知ってたんでしょう。あのおしゃべりオバサンの甥だかなんだかって人が警官だってこと」
 奈々未はパソコンがのった机をバシンと叩いた。
「ええ、まあ、でも、アイドルとかは初耳でした」
「アイドルなんて、そんなことどうでもいいの。あのオバサン、身内にお巡りがいるんだってさ。オレオレ詐欺を捕まえたい? どうぞ捕まえなさい。だけど、こっちは心臓バクバクよ」
「道案内とか、いなくなった猫の捜索やら、それが交番勤務ですよ。ああそうだ、商店街のお祭りに交通整理で来てくれたなあ」
「言い付けるつもりだったのね。バイトとか、うまいこと言って、結局は警察に突き出すんでしょ」
「そのつもりなら、とっくに連絡してました」
「とにかく、バイトはこれで終わり、とっとと逃げる・・・じゃなかった、帰るわ」
「せめて明後日まで、お願いできませんか」孝夫が手を合わせて頼み込んだ。
「三日目にパトカーがお迎えに来るとか、そんなことしたらタダじゃすまないわよ」腰に手を当てて孝夫を睨み付ける。
「詐欺はバレるし、向いは警官、ヤバいところに来ちゃった」
 奈々未は頬を膨らませた。
「それにあのオバサン、口が軽そうだから、そこらじゅうで私のことをお嫁さんだとか言いふらすわよ。ああ、イヤだ。頭きちゃう」
「怒った感じの奈々未さん、それもステキです」
「バッカじゃないの」


 それでも奈々未は日曜日まではバイトすることにした。給料は前払いで受け取っているので、ここで辞めたら、孝夫は警察に駆け込むだろう。
 あと二日の辛抱である。


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