小説ー3 ニムロッド・クラブ解散

ニムロッド・クラブ解散


19世紀英国ヴィクトリア朝を舞台に、挿絵画家の死を巡る物語を書きました。


連載第3回  *1*の2


「シーマーさん、実は、私も同業でして、細々と風刺漫画を描いておるんです」
 ドイルもまた画家であるというのだ。
「そうですか、ドイルさん・・・ドイルさん、はて? 」
 シーマーが首を傾げた。その名前に心当たりがなさそうだ。
「私は本名ではなく、H・Bというペンネームを使っているんです」
「えっ、H・Bさんですか」
 シーマーが驚いた。
「政治風刺漫画を描いている、あのH・Bさんでしたか・・・先日の『毛並みの良さ・毛並みの悪さ』は面白く拝見しました」
 なんとも偶然だが、ロバート・シーマーもジョン・ドイルも、その世界では著名な挿絵画家であった。フィリップは二人の挿絵画家を引き合わせたことになる。もっとも、ジョン・ドイルは自分のことを挿絵画家でなく風刺漫画家と言っている。フィリップには、挿絵も風刺漫画もどちらも同じ物のように思えた。
「あれは、政治家ジョン・ラッセル卿とダニエル・オコンネルの対立を皮肉った漫画でしょう。題材はランシアの絵画ですね」
「シーマーさんのおっしゃる通りです」
 ジョン・ドイルはチャールズの頭を撫でた。
「子供たちのためにも、もっと頑張らなければいけないと思います」
 それからひとしきり挿絵や版画の話題になった。といっても、主に話すのはドイルで、シーマーとフィリップは聞き役に回っていた。イザベラは本来の取材対象ではないが、俄然、挿絵画家の取材にやる気を見せた。
 ドイルは、この時代の出来事を、シェイクスピアなどの先行する作品を引用して描いていると語った。また、家族にも正体を知られないよう、子供たちの寝静まった深夜に描いていること、子供たちにメモやスケッチに頼らず、しっかり観察して、見てきたことを発表させていることなどを話した。H・Bというペンネームは、JとDを二つ並べて作ったものだそうだ。
 二人ともエッチングという技法の銅版画を得意としているとのことである。
 ドイルが、ペンネームのことは秘密ですとイザベラに言った。特ダネを書き損なってイザベラはしょ気ている。
 フィリップは、「今度穴埋めしますよ」と言ってあげたが、イザベラは何のことか分からずきょとんとしている。彼女が警察に取材に来ることがあったら、書記の仕事を見せてあげよう。あるいは、特ダネをプレゼントできるかもしれない。
「チャールズは末っ子でして、兄のリチャードは、まだ十二歳になったばかりですが、版画や挿絵を描いています。自分の同じ年齢のときよりはずっとうまい」
「それは楽しみですな」
「その点、このチャールズは誰に似たのか分かりませんが、しょっちゅう庭の花を眺めては話しかけているんです。どうしたのかと訊ねると、プリムローズに住む妖精と話しをしていたと言っておりました」
 フィリップが見ると、チャールズは相変わらず黄色の花を眺めていた。父親が言ったように、ここでも妖精と言葉を交わしているのだろうか。
「チャールズ君は画家というより小説家が向いているようだ。版画家に小説家、芸術家一家ですね」
「息子たちの代は画業に勤しんでもらいたい。そのうち、孫の世代になったら、作家や旅行家になる者が出てくるかもしれません」
 ジョン・ドイルがそう言うとチャールズが振り向いて頷いた。
「シーマーさんは、いまどんな仕事を手掛けて・・・」


 ドイルが言いかけたとき、湖の対岸に一人の男が走ってきた。たいそう太った男で、彼はボートに乗った男性を大声で呼んでいる。ボートの男性はパイプをくわえたまま岸に向けて漕ぎだした。太った男は自分が来た方向を指差し、なにやら身振り手振りで話していたが、まもなく二人は急ぎ足で立ち去った。
「フィリップさん、今の二人はどう見ましたか」
 ドイルがフィリップに話を向けた。
「急ぎの用事でもできたのでしょうね。のんびりボート遊びなどしている場合ではなさそうだった」
「走ってきた男、あれは警察官ですよ。私は町なかで、あのような太った巡査を見たことがあります」
 イズリントン管区の警察署にはワトソンという巡査がいる。フィリップより年下だが太っていて貫禄がある。見た目はワトソンの方が上司と思われるだろう。
「それでは、彼の名はワトソンにしましょうか」
 ワトソンに登場してもらうことにした。
「いいでしょう、いかにも巡査にいそうな名前だ。さて、ワトソン警部は事件が起こったので、あのボートの男性を呼びに来たのです」
「というと、ボートの男性は警察署長だったんですか」
「いえ、彼は探偵です」
「探偵! 」
「それも名推理で難事件を解決する、腕利きの探偵でしょうな。ワトソン警部は手に負えない事件があると、ああやって探偵に助けを求めにくるわけです」
 ドイルが目前で繰り広げられた光景を即興の探偵小説にして語った。ドイルの子供のチャールズも大人たちの話をじっと聞き入っていた。
 黙って聞いていたシーマーだったが、ドイルの話を聞いて、このときばかりは顔がほころんだ。ややもすると陰鬱な感じがしていたが、ワトソン警部と探偵の一件でようやく打ち解けた様子だ。


「そうでした、探偵騒ぎで忘れていましたが、シーマーさん、最近はどんな仕事を手掛けているんですか」
 ドイルが話を元に戻してシーマーに問いかけた。シーマーはしばらく考えてから、
「釣りであるとか狩猟などのスポーツをテーマにした挿絵集を出そうと思っています」
 と答えた。
「釣りですか。そういえば、シーマーさんには釣りや狩猟を扱った作品が多い」
「ロンドンに暮らす男たちが狩猟クラブを結成して釣りや狩猟を始めたのはいいが、滑稽な失敗ばかりやってしまうという話です」
「それは愉快だ。というと、こうして釣りに来ているのも、挿絵集のアイデアを見つけるためでしたか」
「そんなところです。むしろ、何も釣れなくて幸いでした。失敗も大歓迎です」
「挿絵集ですか、それとも文章は付けるおつもりですか」
「挿絵集で出します」
 ロバート・シーマーは釣りと狩猟をテーマにした挿絵集を出版する予定だが、それには文章は載せないということだ。
「それがいいでしょう。シーマーさんなら、挿絵だけで全てを語れる。私たちからすれば文章は説明程度で充分ですな」
「挿絵集は【ニムロッド・クラブ】という題名にしようと思っています。まだ、幾つかの下絵を描いただけなので、出版できるのは早くとも来年の春になりそうです」
 フィリップの記憶では、ニムロデは旧約聖書に出てくる猟師の名前だ。
「それでは釣果のなかった私たちも、【ニムロッド・クラブ】に入会できそうですな、そうでしょう、ドイルさん」
 フィリップが言うと、
「ついでに、先ほどの警官と探偵の二人も加えて、【ニムロッド・クラブ】は五人になったわけですな。滑り出しは上々だ」
 ジョン・ドイルもそう応じた。
「私も入れていただけますか」
 イザベラ・スミスがおずおずと手を上げた。
「女性も会員になれるんですよね」
「もちろんです。さしずめ、あなたは【ニムロッド・クラブ】の特派員だ」
 あたかも、この場が【ニムロッド・クラブ】の発会式の様相を呈してきた。
 ドイルから【ニムロッド・クラブ】の特派員に指名されたイザベラは、ニコニコしながら鉛筆を走らせている。釣りの取材はダメだったが、おかげで面白そうな題材に当たった。
「ところで、釣りはまだしも、狩猟となると、お金が掛かって大変でしょう。シーマーさんは狩猟もなさるんですか」
 フィリップが狩猟はするのかと訊いてみた。
「いえ、狩猟は行ったことがありませんが、猟銃は持っています。挿絵に描くために入手しました」
 シーマーは挿絵を描く参考にするので実物の猟銃を所持していると言った。それを聞いてフィリップはどことなく悪い予感がした。
 ザワザワ。
 風が出てきた。木々が揺れている。遠くには黒い雲も見えた。天候が崩れる前兆だ。雨が降りだす前に帰った方がよさそうだ。
 今しがた感じた悪い予感は天候が悪くなる前触れだったのかもしれない。


☆ 今回掲載分では、後に重要となる箇所があります。


☆ フィリピンの地震とか、インドネシアの火山噴火、そして今日は相模湾でも地震があって、怖い。