小説ー2 ニムロッド・クラブ解散

 ニムロッド・クラブ解散


 19世紀英国ヴィクトリア朝を舞台に、挿絵画家の死を巡る物語を書きました。


連載第2回  *1*の1


 フィリップ・ストックは、ロンドンの北部イズリントン管区の警察署の書記である。
 1835年十月、良く晴れた秋の一日、彼はハムステッド郊外の湖に釣りに出かけた。市の中心部からみればイズリントンも田舎ではあるが、ここハムステッドまで来ると、さらに田園風景が広がっている。
 湖畔に場所を決め釣り糸を垂れたが、一時間経っても一匹も釣れない。どこかへ移動しようかと思ったとき、背後から声を掛けられた。
「お父さん・・・ですか」
 見ると、うら若い女性が子供の手を引いていた。
 フィリップは声の調子から女性と判断したのだが、男性に見えなくもなかった。腰のあたりが膨らんだ乗馬ズボンに、上はブラウスとジャケットを着ている。襟には赤いスカーフを巻き、ハンチング帽子を被っていた。今までに見たことのない奇抜な服である。男性が着るような服を女性が着ている。二十代半ばだろうか、小柄で可愛らしい女性だ。
 子供は五、六歳の男の子だった。
 フィリップは「迷子ですか」と訊いた。
「ええ、しゃがみ込んでじっと花を眺めていたんです。近くに家族が見当たらないので、どうしたものかと困っています」
 フィリップは立ち上がった。書記なので凶悪事件には関わったことはないが、迷子の世話くらいなら経験がある。
「その子の名前は? 」
「何も答えてくれません」
 女性が首を振った。
「一人で来たのかしら、湖に落ちでもしては大変だわ」
 その間も男の子は黄色い花を見ている。さて、この子の親はどこだろうか、フィリップは気が気でない。すると、そこへ、
「チャールズ・・・ああ、ここか」
 四十歳くらいの男が現れた。子供の父親らしい。
「ご迷惑でもお掛けしませんでしたか」
「いえ、静かに花を見ていました」
「そうですか、我が家でもこんな風に日がな一日、花壇の花を眺めているんです」
 父親は帽子を脱いだ。
「申し遅れました、ジョン・ドイルです。この子はチャールズといいます。考え事をしていて、気が付くと子供の姿が消えていました。人さらいにでも捕まったら大変でした」
「はじめまして、フィリップ・ストックです」
「私は、イザベラ・スミスです」
 それぞれに名前を名乗った。
「私は休暇で釣りに来ています」と、フィリップ。
「私は取材です。『リテラ・ゴディカ』紙の新聞記者をしています。釣り人に話を聞き、釣りの楽しさを書こうと思いまして」
 イザベラ・スミスは新聞記者だった。
 最近ではさまざまな職業に女性が進出してきているが、フィリップは女性の新聞記者は初めてだった。乗馬ズボンにジャケットという人目を引く服装で、事件現場に乗り込むのであろうか。
 彼女が言うのには、『リテラ・ゴディカ』紙は月に二回、一日と十五日に発行しているそうだ。
 ジョン・ドイルが珍しそうにイザベラの姿を眺めている。イザベラはというと、もう馴れっこになっているといった感じである。
 フィリップは、警察勤務であることを言い出すきっかけを失った。今日は休暇を利用して釣りに来ているのだから、黙っていても差し支えないだろう。


「どうですか、釣れましたか」
 イザベラは背中に背負った鞄から筆記用具を取り出して取材を始めた。
「さっぱり釣れません。そろそろ場所を変えようと思っていたところでした。すみません、これでは取材になりませんね」
 申し訳ないが取材には協力できそうにない。
「私まだ新米なんです。ずっと雑用係だったんですけど、ようやく取材を任されました。でも、この釣りの取材だって、たぶん記事にはならないと思うんです」
「どうしてですか」
「十一月から翌年の一月末までは釣りは禁止なんでしょう。十月に取材してもすぐにシーズンは終了ですもの」
「スコットランドでは鱒釣りは一月末まで禁止だったと思いますが、この辺りはそういう決まりはなかったはずです。まだ釣りはできますよ」
「では、海老は釣れますか。あと、ヒラメはどうですか」
 イザベラ・スミスが勢い込んで尋ねた。
「お嬢さん、ヒラメは海の魚です。海老も網で漁をするので、めったなことでは釣り竿には掛かりません」
「なあんだ、それじゃあ、海老もヒラメも釣れないんだ」
 彼女は海老とヒラメが釣れると思っているらしい。フィリップは彼女は裕福な家庭に育ったのだろうと推測した。海老もヒラメも高級な食材だ。
「何にも釣れなくても、それもまた釣りの面白いところです。新聞の読者には、釣りや狩猟の失敗談が喜ばれますよ」
 ジョン・ドイルが助け舟を出した。
「それもそうですね」
 イザベラに笑顔が戻った。


 それからフィリップは湖の周囲を散策しようと提案した。ジョン・ドイルと子供、イザベラ・スミスも一緒である。
 落ち葉を踏みながら湖畔を歩いた。風は静かで、遠くに鳥の声が聞こえる。のどかな昼過ぎ、湖にはボートを浮かべて釣りをしている男性の姿があった。よく見ると、ボートの男は釣りをしているのではなく、ただ寝そべっているだけのようだ。
 イザベラが子供の手を引いている。すっかりなついている。のんびり歩くと、その先に、静かに釣りをしている男性がいた。
「よろしいですか」
 フィリップが声を掛けると男性はビクッと身体を震わせた。
「突然、お邪魔してすみません」
「いえ」
 その男性はフィリップと同じくらいの年齢に見えた。チラリと視線を送って寄こしたが、すぐに湖面に眼をやった。フィリップが釣れましたかと訊ねると男は首を振った。
「ダメです、今日も」
 新聞記者のイザベラは、それを聞いて残念そうな表情を見せた。またも取材はうまくいかなかった。
 釣果がなかったせいだろうか、その釣り人はどことなく暗く、とっつきにくい雰囲気である。これでは新米記者のイザベラはますます取材しにくいだろう。フィリップは男性の脇の草むらに腰を下ろした。
「はじめまして、フィリップです。こちらはジョン・ドイル氏とチャールズ君。彼女はイザベラ・スミスさんです」
「どうも・・・ロバート・シーマーです」
 そう言ってロバート・シーマーは再び下を俯いてしまった。怏々として楽しまずといったところである。
 フィリップはシーマーの名前をどこかで聞いた覚えがあった。新聞でその名前を見たような記憶があるが、なかなか思い出せない。フィリップが考えを巡らせていると、
「シーマーさん・・・ロバート・シーマーさんですか」
 ジョン・ドイルが上ずった声を出した。ドイルはシーマーを知っているようだ。
「ご存じだったんですか」
「ええ、シーマーさんは『フィガロ・イン・ロンドン』で挿絵や表紙を描いている画家の方です」
 そこで、フィリップは、シーマーという名の挿絵画家がいたことを思い出した。だが、『フィガロ・イン・ロンドン』は警察署には置いてないので、あまり読む機会がなかった。
「お会いできて光栄です、シーマーさん」
 ジョン・ドイルはフィリップとシーマーを交互に見て、
「このイギリスで挿絵画家といえば、まず第一にクルックシャンクの名が挙がるでしょう。シーマーさんは、そのクルックシャンクに勝るとも劣らない挿絵画家です」
「それほどではありませんよ」
 フィリップもクルックシャンクの名前は知っている。釣りに来た湖で出会った男性は当代一の挿絵画家クルックシャンクと並ぶほどの画家だった。しかし、ジョン・ドイルから褒められたにもかかわらず、相変わらずシーマーはニコリともしない。むしろ浮かない顔をしている。