短編集 蟷螂の斧

 短編集、その四「蟷螂の斧」を掲載いたします。文字数はおよそ6000文字、長いうえに難解です。



 ・難読文字 
 蟷螂の斧=とうろうのおの
 凭りかかられて=よりかかられて。
 昆蟲=昆虫。猩猩緋=しょうじょうひ。
 沐浴=ゆあみ。現るる=あるる。
 國體=国体 国家の体面、形態。(おもに戦前の大日本帝国を指して謂う)
 凍蝶=いててふ(いてちょう)。膠=にかわ。
 斑猫=はんみょう。砂鐡=さてつ。
 秋篠月淸集=あきしのげっせいしゅう。
 禱る=いのる(祈る)。嬰兒=えいじ。


【蟷螂の斧】 蟷螂はカマキリのこと。カマキリが前足を上げて立ち向かう様子から、自分の力量を顧みず強い相手に立ち向かうことの意。あるいは肯定的に、弱者が強者に果敢に挑むという意味でも使われる。


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 蟷螂の斧


 事の発端は「てふてふ」だった。
 蝶々は、現代仮名遣いでは「ちょうちょう」だが、その昔、歴史的仮名遣いでは「てふてふ」だった。どうしてなのかと考えてみた。


 私が散歩するのには幾つかのコースがあって、そのうちの一つ、東中町第二公園方面のルートをよく歩く。同じ時間帯に散歩すると決まって会う人がいるものだ。堀池さんもその一人で、何度も会ううちに話をするようになった。何気ない日常会話だけのときもあれば、昆虫の話題や絵画、歴史の話もする。
 中でも話が合うのは昆虫に関する事柄だった。この春には、アカボシゴマダラ春型について、また、夏にはキマダラカメムシについて興味深い話を聞かせてもらった。
 先日、堀池さんに以前から疑問に思っていたことを訊ねようとした。
 その質問は、「なぜ昔は蝶々のことを、てふてふ、と言ったのか」である。しかし、堀池さんは昆虫だけでなく、写真やスポーツ、果てはアイドルにも詳しい。その人にいまさら初歩的なことを訊ねるのは申し訳ないと思った。そこで、あちこち調べたところ、「てふてふ」が「ちょうちょう」になった経緯がなんとなくわかった。
 日本に漢字が伝わったころ、蝶の字は「てふ」と読んでいた。それが、ハ行がワ行になって「てう」に変化し、さらに母音が連続すると長母音化し、その結果、「ちょう」になったというわけだ。
 てう=teu では、連続する母音euがyoになり、tyo=ちょうとなるのである。ちょうのような拗音が現れるのは平安時代の末から鎌倉時代にかけてのことだ。
 このことから、平安時代の初期までは、書く場合も発音するときも「てふ」だった。時代とともに「てふ」の発音が「てう」となり、後に「ちょう」となって、それが戦後まで続いた。戦後は表記と発音は同一とされたので、書くのも読むのも「ちょう」になったと思われる。「ちょう」になるまでには二段階の変化を経てきたのである。蝶だけに変態というべきだろうか。
 高校時代、古文が得意だった私にすれば簡単なことだった。これなら堀池さんに自慢できると思ったのだが、そこでまた新たな疑問がわいてきた。
 そもそも、漢字が伝わった当時、なぜ、蝶を「てふ」と言ったのかという疑問である。この根本的な問題については答えが見つからなかった。学校では教えてくれなかったのか、さもなければサボっていたのどちらかだ。
 ということで、蝶はなぜ「てふ」と読むのかという問題について、公園で堀池さんに会った折に訪ねてみた。さすがの堀池さんも、蝶を「てふ」と言った起原までは知らないだろうと思ったのだが・・・
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 十一月の終わり、朝の散歩の途中、横浜市P区にある東中町第二公園に行った。
 たいていは今日のように午前中にくるのだが、先日は夜の公園にも来てみた。秋の夜長は散歩に適している。竹林を歩いていると篠竹の間から細い月が見えた。心が清らかになったような気がした。
 さて、公園内は紅葉も終わりかけ、ムクノキやサクラの葉がいっぱい落ちていた。管理人さんたちが箒と熊手で掃除をしている。掃き集めた落ち葉の上を黄色いチョウが飛んでいた。その飛んでいる様はいかにも弱々しい。秋だなあと思った。そろそろカマキリの卵が産みつけられていないかと探したが、見つけられなかった。私は落ち葉を踏んで歩いたり、ときには手に取ってフワーと投げてみたりする。
「ほう・・・良く調べましたね」
 公園のベンチに座って、「蝶・てふ」に関するこれまでの経過を離すと、堀池さんは褒めてくれた。
「そうなる以前、漢字の蝶を、てふ、と発音したのは何故かという疑問が残りました」
「なるほど、それは一言では難しいですね・・・」
 堀池さんは空を見上げて考え込んだ。さすがにこれは難問だったようだ。腕を組んだり、あるいは、「エフ~」とか、妙なため息をついている。しばらくして、「コッコ」と独り言を言い、それから私に説明してくれた。
「わが国に漢字が伝わったのは三世紀の後半だと言われています。その当時、日本には文字がありませんでした。問題の「蝶」の字ですが、これは現代の中国語では、ティエ【die】と発音します」
「ティエですか」
「ところが、漢字が伝わった当時は少し違っていて【tiep】という音だったのです。このpはfに近い音で、聞こえるか聞こえない程度に発音されたようです。ティエの後に、微かにPの音、フの音が付いていたと思われます。このフの音を、そのころの日本人はハッキリと聞き取ったのだと考えられます」
「日本の人は【tiep】がティエフに聴こえたんですね」
「そうです。日本語は子音だけは発音できませんからね。【tiep】はティエではなく、ティエフになりました。それが「てふ」変化したのです」
 私は、うーんと唸った。初めて耳にすることなのでいま一つピンとこない。
「音声学みたいで難しいですね」
「てふ、から、てう、になったのはご指摘の通り、ハ行の発音がワ行に変化したためでしょう。話し言葉は変わりやすいのですが、書き言葉は保守的なので、変わらずにそのまま残りました」
 これは理解できる。普段は、やっぱし、と言うが、書くときは、やはり、である。
「別の例を挙げてお話ししましょう」
 堀池さんが話を続ける。
「国という漢字は、日本では音読みにするとコクです。現代の中国語では【guo】、すなわち、クォと発音します。これもかつて日本に伝わったときには【guok】と、最後の部分にkが付いていました。kがあるつもりで発音してみてください」
「はい・・・クォ、ではなくて、クォク、クォクですか」
「その通り、うまいですね」
「ええ、コツが分かってきました」
 マイ・フェア・レディでオードリー・ヘップバーン扮する花売り娘が発音の練習をする場面を思い出した。
「日本人は、【guok】をクォクと聞いたのです」
「なるほど、その後、クォクがコクという発音に変わったのですね」
 ティエがティエフ、クォがクォク、漢字が伝わった初期のころに、日本人はそう聞き取った。それは現在の中国語の音とも違う音だ。
 これで私にも、蝶の発音が中国語のティエからティエフになり、それが、てふ、てう、ちょうと変化したことが理解できた。それにしても、公園での立ち話の領域を越えて大学の講義のような難しい話だった。


「『ちょうちょう』という童謡がありますけど、あれも『てふてふ』だったんですか」
 難解な大学レベルの講義は遠慮して簡単な話題にした。
「そうです。題名は、てふてふ、でも、声に出して歌うときは、ちょうちょう、です」
「ちょうちょ、と歌ってました」
「ああ、そうでしたね」
「そうすると、昔の子供は、てふ、と、ちょうを使い分けるのが大変でしたでしょうね」
「良い指摘です。かつて、歴史的仮名遣いを使っていたときは、国語の辞書を引くのは大変だったのです。蝶は【ち】の項目には載っておらず、【て】のところを見なくてはならないんですから」
 そうか、蝶は、ち、ではなくて、て、だったのだ。
「同じように、花壇という言葉はクヮダン、昭和はセウワです。教育の内容が今とは異なるとしても、昔は子供が辞書を引こうとすると容易ではなかった。その点、現代仮名遣いでは発音通りに辞書を引けるので楽になりました」
 辞書を引くことなど当たり前のように思っていたが、戦前までは誰にでもできることではなかったのだ。
「虫が出てくる童謡には、『てふてふ』の他にも、『虫の声』がありますね」
 私がそう言うと、堀池さんが、
「そうでした、一番の歌詞にはマツムシが、二番にはキリギリスが登場します」
 と言った。
 マツムシは冒頭に出てくるが、二番はうろ覚えだから、キリギリスは忘れていた。
「短歌で虫の歌というと・・・」
 今度は短歌の話になった。
「新古今和歌集に採られている歌で、百人一首にも入っている歌、
『きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む』
 藤原良経の作です。ここで歌われている、きりぎりすは現在のコオロギのことを指しています」
 こちらのきりぎりすは良く知っている。実は、コオロギだというのは学校で習った。良経は九条良経ともいう。これでも古文は得意だった。伊勢物語をはじめ古典にも親しんでいる。百人一首や王朝の歌であれば、私でもなんとか付いていけそうだ。
「昆虫は、から始まる歌もありますよ」
 と、堀池さんが言った。
 昆虫で始まる歌、そんな歌があったかなと、さっそく頭の中を巡らした。私は百人一首の中の「こ」で始まる歌を思い浮かべた。
「こ・・・『恋すてふ』。『心あてに・・・おきまどわせる白菊の花』」
 勢い余って下の句まで詠唱した。
「昆虫は、の歌は百人一首ではありません、前衛短歌です」
「前衛短歌?」
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 漢字が伝わったころの音声学の話は難しかった。それが、昆虫の短歌の話になったら、さらにレベルアップした。私には、公園で聞いた話だけでは理解不能なところが多かった。すると後日、堀池さんから便箋数枚にわたる詳細な手紙をいただいた。


「昆虫は」で始まる短歌について、堀池さんが教えてくれたのは、塚本邦雄という歌人の短歌だった。私には初めて耳にする名前と短歌だった。
 塚本邦雄は『前衛短歌』で知られている歌人である。大正九年の生まれで、会社勤めのかたわら歌を発表し、戦後、『水葬物語』や『日本人霊歌』などの歌集を著した。
 その歌には、正仮名遣いと正字体が使われている。正仮名遣いは、現在、一般的に知られている歴史的仮名遣いとは異なる。
 塚本邦雄の短歌、『前衛短歌』は、従来の五七五七七とは限らない。七七五七七という変格も多用した。
 また、語割れ、句またがりといわれる手法も見られる。その一例を挙げる。
 『革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ』
 声に出して読むとこうなる。
 『かくめいか・さくしかに・より・かかられて・すこしづつ・えきか・してゆくピアノ』
 ここでは、よりかかられてが、二つの句にまたがっている。
 仮名遣い、独特の短歌のリズムなど、塚本邦雄の歌はかなり難しそうだ。これは相当気を引き締めてかからないといけないと思った。堀池さんからのメモ書きにもその点について触れてあった。
 それによると、塚本邦雄の歌は簡単に理解できるものではない。何度も読み、暗唱するまで読み込み、敢えて意味を探ろうとしない方がいい。自分は五十歳を過ぎて塚本邦雄の歌に出会ったが、もっと早く知っていればと後悔した。若いときに巨大な相手と向き合うことは必ずや良い経験になるだろう、ということだった。
 良い経験。このアドバイスをありがたく拝聴することにした。


 堀池さんの話にあった、塚本邦雄の歌集の中の「昆虫は」で始まる歌から記そう。


 『昆蟲は日日にことばや文字を知り辭書から花の名をつづりだす』


 本当に昆蟲で始まる歌があったのだ。この歌からは、蝶や蜂が辞書の頁の合間を飛び回る情景が呼び起こされる。
 次に、虫に関する幾つかの歌を列挙する。


 『初蝶は現るる一瞬とほざかる言葉超ゆべきこころあらねど』
 『園丁は薔薇の沐浴のすむまでを蝶につきまとはれつつ待てり』
 『夜會の燈とほく隔ててたそがるる野に黒蝶のゆくしるべせよ』
 『生前のわれの書齋を訪れきたしか猩猩緋の初蝶が』
 『國體につひに考へ及びたる時凍蝶ががばと起てり』
 『かまきりの卵の膠かわきつつ冬 不信もてつながるわれら』
 『五月祭夜の道濡れて斑猫は死をよそほひわれは生をよそほふ』
 『秋篠月淸集卷頭の「春」の字にあゆみよる若き蟷螂』


 塚本邦雄の短歌に歌われる蝶や斑猫、蟷螂などは、どことなく、遊星から飛来してきた妖しげな姿をしているように私には思える。さらに、死を思い起こさせるイメージもあるのではないだろうか。とくに、凍蝶という言葉に異様な感じがした。


 さて、これを機会に、私は塚本邦雄の歌集を手に入れた。昆虫に関しては、蜻蛉、玉蟲、蝉、蜂、鱗翅、鞘翅などを詠み込んだ歌が数十首ほどあった。かなりの昆虫好きであると確信した。
 歌集には二百首ほどの短歌が収められているのだが、これがことごとく難解である。正字体に正仮名遣いに戸惑った。まして、歌に歌われている戦後の時代背景など知らないことばかりだ。
 いったい、これらの歌は何なのだと、訳も分からず深いため息をつくばかりである。
 あてもなく歌集を捲っていると、こんな歌を見つけた。
『摩天樓落成の日風荒れてこの左官隠岐の黒木にかへる』
 これは承久の変の後に後鳥羽院が隠岐の島に流されたことを踏まえていると思われる。『増鏡』には、隠岐の島の住まいは「松の柱に葦葺ける廊」とあり、松の柱は樹皮の付いたままの丸太、すなわち黒木である。また、これに続けて、後鳥羽院の歌、
『我こそは新島守よ隠岐の海の荒き浪風心して吹け』がみえる。
「黒木」については、『太平記』に、後醍醐天皇が隠岐の島に配流になったおりに、「黒木の御所を造りて」とも記されている。
 このように塚本邦雄の歌は、その歌の背景を知らなければ、とうてい理解できるものではない。高校では古文が得意科目でした、古典も読みますという程度では歯が立ちそうにないと痛感した。
 これはとてつもなく大きな相手に立ち向かうことになってしまったと思った。
 そこで思い出した。堀池さんに教えてもらった昆虫を詠み込んだ歌で、
『秋篠月淸集卷頭の「春」の字にあゆみよる若き蟷螂』という一首があった。秋篠月清集は、きりぎりすの歌の作者藤原良経の私家集である。
 この歌は蟷螂の斧の故事を思い起こさせる。蟷螂の斧は、自分の力量を顧みず強い相手に立ち向かう意味であるが、弱者が強者に果敢に挑む、困難な状況に立ち向かうという肯定的な意味にも使われる。堀池さんはこの歌を紹介しつつ、秘かに私に、大きな相手、すなわち、塚本邦雄の前衛短歌に挑戦しなさいと言ってくれたのであろう。そう思って、何年かかってもよいから少しずつ読むことにした。


 塚本邦雄の短歌には戦争を歌ったものが数多くある。戦争を憎んだのだ。


 『戰爭のたびに砂鐡をしたたらす暗き乳房のために禱るも』
 『聖母像ばかりならべてある美術館の出口に続く火藥庫』
 『五月來る硝子のかなた森閑と嬰兒みなころされたるみどり』
 『突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士あり』
 『原子爆弾官許製造工場主母堂推薦附避妊藥』


 これらの歌に接するにつけ、戦争は悲惨だと改めて強く思った。
 ゲームの世界では敵の飛行機を撃ち落としたり、戦車で戦うシーンがある。ゲームではカッコイイかもしれないが、現実の戦争は悲惨だ。そして、戦闘行為はもっと悲惨だと思う。今年の二月以来、テレビの画面を通してそれを何度も目にしてきている。攻撃によって破壊された住居、瓦礫と化した学校、病院。家族を失った人、命を奪われた人々がいる。
 戦争は悲惨だ。そして、戦闘行為はさらに悲惨だ。
 蟷螂の斧。弱者が、困難な状況を乗り越え、強者に果敢に立ち向かう姿。私は連日、それを目撃している。


短編集、終わり


 ・最後までお読みいただきありがとうございました。


 本稿では一部の表記に正字体を用いるべきところ、パソコンのワープロ機能では探し出すことができず、やむを得ず新字体を使った箇所があります。塚の字など、幾つかの漢字は正字体が見当たらず新字体にしました。


【あとがき】
 短編集、その一からその四をお読みいただきありがとうございました。その四にて完結しました。


【参考文献】
 塚本邦雄歌集 現代詩文庫 思潮社
 塚本邦雄 コレクション日本歌人選 笠間書院ほか