世界でいちばん・・・ハズレ本

 世界でいちばん透きとおった物語 杉井光 新潮文庫


 またしてもハズレ本でした。


 本作は、亡くなった小説家の遺作を探すという内容です。原稿を探すのは、亡くなった小説家の子息、ただし、本妻ではなく不倫相手、いわば、愛人の子息です。本にまつわる物語、その設定が面白そうだったので買いました。しかし、文体、語彙、話の展開、いずれも期待外れなので92ページまででやめました。この本の帯には「洗練された文章に惹き込まれ、・・・」という推薦文も付いていましたが、私が読んだ範囲では、洗練された文章とは思えない表現が目立ちました。


 私にとって、この本がダメだった理由を述べます。「な」の使い方からみていきます。本作の中から、幾つかの文章を引用します。


 第一の例です。82ページです。 


 例文1 でも、再び口を開くまでには間があった。軽い話なわけがないのだ。


 軽い話なわけ、のところが問題です。「な」は、モノ・コトには付けられないとされています。たとえば、科学な本、日本な家とは使えません。従って、「話」という名詞に「な」を付けるのは間違いです。最近では、本来は「の」を付けるべきところを「な」を使うことがあるようです。とくに会話では、「突然な訪問」のように言います。これは不自然には感じません。この小説は、地の文が話し言葉調で綴られているので、「軽い話な」としたのでしょう。ところが、最後は「のだ」と、書き言葉で結んでしまいました。


 別の例をみましょう。少し遡って、60ページに、こんな文章があります。亡くなった小説家には複数の愛人が存在したようで、主人公の「僕」が遺作を探すため、愛人の一人だった藍子さんという女性を訪ねるシーンです。


 例文2 藍子さんは、25歳くらいの、ノースリーブの白いワンピースがよく似合ういかにもなキャバ嬢だった。あまり作家の愛人ぽくない雰囲気。


 ここでも、「な」の使い方が変です。副詞「いかにも」に「な」を付けると不自然になります。たとえば、副詞の「もっと」を「もっとな」と使うのは間違いです。例文の「いかにもな」という用法も、しっくりきません。


 そして、この文章は叙述がズレています。


 「ノースリーブの白いワンピースがよく似合う」女性と、「いかにもなキャバ嬢」が結び付くのは無理があります。前後の関係がズレていて論理が破綻しています。


 さて、この文では、亡くなった小説家の愛人だった藍子さんというキャバクラ勤めの女性について描写しているのですが、いかにもなキャバ嬢では、具体的にどのような人物だかわかりません。一人称の主人公の頭の中にある事柄は、文字として表現してくれないことには読者には伝わらないのです。そこを書くのが作家の仕事だと思います。たとえば、化粧の濃いとか、派手な顔立ちとか、客あしらいが上手そうな女性とか、あるいは、いかにも作家の愛人になりそうな女性であるとか、いくらでも書けるでしょう。


 ところが、その後に、「あまり作家の愛人ぽくない雰囲気。」と続いています。私は「いかにもな」の中に、いかにも作家の愛人になった女性という意味も含まれていると思いました。「いかにもな」と書いておいて、読み手にあれこれ想像させ、それを否定するかのように「あまり作家の愛人ぽくない雰囲気。」と書くのは感心しません。むしろズルいです。どうも、この一文は無理に付け加えた感じがしています。これまた想像ですが、主人公が藍子さんは愛人ぽくないと思ったのは、作家の愛人は、もっと知的で文学少女でおしとやかな女性であるべきだと思い込んでいるのではないでしょうか。それでも藍子さんが主人公の父親の愛人だったことは事実です。



 この小説は一人称で書かれているので、主人公の視点で物語の世界を見ることになります。「いかにもな」は、どことなくキャバクラ勤めの女性を見下すような感じで、主人公に共感できません。下品で粗野な言葉です。しかも、「いかにもな」は、決してその人の前では口にすることのできない言葉でしょう。ここは読んでいて気分が悪くなりました。


 さて、亡くなった小説家、つまり自分の父親には複数の愛人がいて、主人公は藍子さんの後で、別の愛人だった女性にも面会しています。その女性は小説家です。


 例文3 藍子さんに比べてずっと大物作家の不倫相手らしさがある。」(73ページ)


 これには呆れました。自分の父親に対して大物作家という言葉を使うのは何とも尊大な態度です。大物かどうかは世間が評価することです。それを、自分の父親を大物作家なんて言うのでは、小物な息子と思われても仕方ありません。主人公は、この「大物作家」という言葉が気に入っているとみえて、他にも数ヶ所で使っています。 


 この小説は、亡くなった小説家の遺作を探すのがテーマです。しかし、私が読めた範囲では、亡くなった小説家の、これまでの著作そのものにはまったく触れていません。つまり、どのような内容なのか、どのような文章の書き手だったのか皆目見当がつかないのです。たとえば、主人公が、これまでに出版された本を買ってくるとか、それくらいしても良かったのではないでしょうか。あるいは、章の変わり目に、著作の一節でも載せる方法もあったと思います。なにしろ、「大物作家」なのですから、名作の一端ぐらい披露して欲しかったと思いました。


 総じて、この小説の地の文は書き言葉ではなく、「僕」の話し言葉が使われているように思えます。それも内輪だけに通用する話し言葉です。しかし、ところどころで無理に書き言葉にしようとしている痕跡もあります。その結果、書き言葉と話し言葉、どちらにも属さない中途半端な書き方になりました。たぶん、SNSなどに投稿するような軽い気持ちで書いたのでしょう。また、地の文がいつの間にか心の中のつぶやきになってしまい、渾然一体となっているようにも感じました。初心者にはよくあることです。


 ここまで「な」の使い方について述べましたが、このような名詞につけるのは話し言葉では普通に使っています。書き言葉でも、広く使われれば奇異に感じなくなることもありますので、今後は誤用ではなくなるかもしれません。日本語は時代に合わせて変化します。なので、新潮社がそれを採用したのでしょう。


 私は、本は図書館で借りるのではなく新刊の本を買います。途中まで読んで、ダメだと思えば、お金は無駄になるのは分かっていても、その本はもう読みません。お金を無駄にし、さらに時間まで無駄にしたくはない。つまらない本に関わっているのは時間がもったいないと思うのです。作家の先生に厳しいことを言うようですが、プロの方ですし、こちらは対価を支払っていて、それが作家さんの収入になるわけです。なので、厳しく言わせていただきます。といって、理由もなく酷評したりすることなく、たとえば、今回のように文法的な面から論理的に批判しているつもりです。ハズレ本に出遭うたびに、今後、新刊本は買わないと思うのですが・・・


 最後に、私はこの文章の中で、亡くなった小説家とか、主人公と書いて、固有名詞は書きませんでした。もちろん、登場人物には名前があります。あえて書かなかったのはせめてもの抵抗です。本当は著者名も書きたくなかった。