連載ー5 「小説 ヴォツェック」

 連載ー5 「小説 ヴォツェック」
 
 今回は、オペラ ヴォツェックの第三幕と、アルテハイムの町の続編です。


 前回までのあらすじ 私は祖父の残した写真に写った場所を探してドイツのアルテハイムの町へ行った。そこで、ルルという女性と知り合い、彼女の家でお爺さんから、私の持ってきた写真にまつわる話を聞かされる。ルルのお爺さんの話は、ヴォツェックという兵士にかかわる物語だった。
 ヴォツェックは貧しい兵士で、上司の髭を剃ったり、医者の実験台になってお金を稼いでいた。ヴォツェックにはマリーという妻がいるが正式には結婚していない。二人の間には小さい男の子がいる。マリーは軍楽隊の鼓笛隊長と浮気をしていたが、ついにヴォツェックはそれを知ってしまう。精神的に追い詰められたヴォツェックは・・・


  **(wozzeck 3)**


 ◆
 夫のヴォツェックは給料を欠かさず渡してくれていた。陰気で面白みのない夫だが、家にはきちんと金を入れていた。大尉の髭を剃ったり、医者からも得体の知れぬ金銭を受け取っていたようだ。それなのに・・・軍楽隊の鼓笛隊長に身を任せてしまった。
 マリーはロウソクの明りで聖書を開いた。
『<・・・その中に虚偽はなかった。パリサイ人は姦通した女を連れてきた。だが、イエスは言った。お前を罰することはしない。行きなさい、二度と罪を犯さないように>』
 傍らにいる子供がおもちゃの人形を振り回した。
『この子の視線が私の胸に突き刺さる。あっちへ行きなさい。ううん、側にいるのよ、いい子だから・・・<昔、昔、一人の孤児がいました。身よりがなく、お腹を空かせて泣いていました、昼も夜も。身よりがなく、泣いていました>』
 ロウソクの火が消えそうになった。すきま風が吹き込んでくる。思い付いて聖書の頁をめくった。
『昨日も一昨日もフランツは来なかった。どうしたのかしら・・・マグダラのマリアについて、何て書いてあったっけ。<女はイエスの足元に近寄り、その足を涙で濡らし、キスをして香油を塗った> ああ、私にも憐れみを』
 聖書を閉じるとロウソクが消えた。
 ◆
 町の広場で十人ほどの子供が遊んでいた。男の子は木の棒に馬の頭部を付けた竹馬に跨って走り回り、女の子は木陰でお店屋さんごっこをしていた。
 十歳になるゲーテは一番下の弟カールを毛布でくるんで抱いていた。カールはまだ一歳になったばかりだった。父親が学校の先生なので、ゲーテは親に習って近所の子供をよく見ていた。ゲーテはマリーの子供にもそれとなく注意を払っていた。マリーの子供、三歳になる男の子は竹馬に乗った子を追い回していた。昼過ぎ、母親のマリーが子供を預けにきた。今日は父親が珍しく顔を出したので出かけると言っていた。


 何度同じ道を行き来するのだろう。マリーはいいかげん帰りたくなった。だが、ヴォツェックが指先に力を込めて放そうとしない。ヴォツェックはあきらかに異常だった。額に殴られたような傷跡があった。目はあらぬ方向を見て、視線を合わせようとしない。猫背がひどく、緊張して固く体に鉄の棒が入っているかのようだ。
 林の中へ入った。ブナやマツ、それにトウヒの木が生い茂り、昼間でも薄暗い。誰かが言っていた、この林のトウヒはクリスマスツリーにするには大きくなり過ぎていると。しかし、今はそれどころではなかった。
 細い道が池の周囲を巡るように続いていた。歩くと枯葉の音がカサカサとした。陽が傾いて霧が出てきた。子供のことが心配になった。近所の子供と遊んでいるうちはいいのだが、迎えに行くのが遅くなるとあの子が心細く思うことだろう。
『町は左よ、早く帰りましょう』
『マリー、ここへ座れ』
 朽ちたベンチを指した。
『もう、歩かなくていいんだ、ここにいろ。静かな場所だ・・・暗いな』
 ヴォツェックが手のひらで頬を撫でる。ゾクッとして震えがきた。肩に掛けたストールを胸元にしっかり合わせた。
『知り合ってどのくらいになる?』
『精霊降誕祭で三年』
『いつまで続くんだろうな』
『私、行かないと』
『怖いのか、マリー。お前は善良で貞節だよな。紅い唇だ。お前の唇にキスできるのなら天国の祝福もいらない。でも、それはできない・・・震えているのか』
 そう言ってヴォツェックは地面の一点を見つめ黙ってしまった。
『夜の霧が・・・』
『霧が降りても冷たい人間には寒くないだろう』
『何を言ってるの、いったい』
 どこかで枝の折れる音がした。それだけでマリーはドキリとした。ヴォツェックの気を逸らそうと空を指差した。
『月が真っ赤だわ』
『ああ、血だらけのナイフのような月だ』
 ヴォツェックはナイフを取り出した。
 貧乏をしたくないから、そう思って、大尉の髭を剃った。医者の実験に付き合って豆ばかり食わされた。給料は全部渡した。それなのに、マリーは鼓笛隊長と深い仲になった。
 全てを解決できるのはナイフだけだ・・・
『何を震えているの、どうしたの』
『何もしないよ、俺も、他の誰かも、もう何もできない』
 ヴォツェックはマリーの喉元にナイフをあてがった。
『助けて』
 マリーがベンチの後ろに倒れ込んだ。
『・・・死んだ』
 ◆
 ヴォツェックはその足で酒場に駆け込んだ。
 いつものように酒場は客でいっぱいだった。ヴァイオリンとアコーディオンに、それに鍵盤楽器が加わった楽団がテンポの速い音楽を演奏し続けている。
『踊れ、踊れ、悪魔が来ても踊っていろ・・・』
 ヴォツェックはマルグレートの姿を見つけた。
『ここへ来い、マルグレート。お前は炎のように熱い女だ。それも、もうじき冷たくなるだろうよ。どうだ、歌ってくれ』
 鍵盤楽器が隣り合った鍵盤を鳴らした。その不気味な不協和音に合わせてマルグレートが声を張り上げた。
『~長いドレスはいらない、ドレスもヒール靴も、召使いには似合わない~』
『靴なんかいらん、地獄へは裸足でもいけるんだ。今夜は暴れてもいいか』
 マルグレートが異変に気付いた。ヴォツェックの右手が赤く汚れている。
『その手は・・・真っ赤じゃない、血だわ』
『血、血、ああ、右手を切ったんだ』
『肘にも血が付いている』
 二人、三人と集まってきた。ヴォツェックが手を動かして血を拭く動作をした。
『拭いた、こうして拭いた』
『右手で右腕を?』
『人の血よ、何をしたのヴォツェック』
『お前たちには関係ない。人殺しとでも言うのか』
 酒場の客に責めたてられヴォツェックは転がるように外へ飛び出した。
 ◆
 月明りを頼りにかろうじて池の畔にたどり着いた。
 ナイフだ、ナイフはどこへいった。
 ヴォツェックは這いつくばってナイフを探した。
『ナイフはどこだ、どこへ置き忘れたんだ。もっと近くか。何かが動いている、いや、みんな死んだ。あいつらが叫んでる。<人殺し、人殺し>。違った、自分の声だ』
 マリーはどこにいったのだろう。
『ストールは、マリーの首に巻いたはずだった。イヤリングと同じように罪を犯して手に入れたのか。マリー、髪が乱れてるじゃないか』
 赤い月に照らされて何かが光った。その辺りの池の水面が揺れている。
『あった、ナイフだ・・・早くしないと、水に沈んでしまう。月が俺の罪を暴くかもしれない。血のような真っ赤な月が見ている』
 ヴォツェックは片足を池の中へ踏み込んだ。ズルリと滑って両足が埋まった。
『水辺に近すぎるな、ここでは誰かに見つかってしまう。ナイフ・・・血を洗わないと。ダメだ、どこもかしこも血だらけだ。血の池だ』
 池の水は真っ赤だった。霧が出てきた。池の水面が波立ち、盛り上がってくるような気がした。このままでは水に飲みこまれる。
 ヴォツェックはまた一歩、また一歩、池の中へと足を踏み出した。腰まで水に浸かった。そこで深みに足を突っ込んだ。水中に前のめりに倒れ込む。濁った水底に見えるのは落としたナイフか、それとも、マリーの瞳か・・・
 ◆
 大尉と医者の二人は下級士官の家から帰る途中、林の中を歩いていた。ここは兵舎に戻るには近道である。霧が出てきた、ときおり鳥の鳴き声も聞こえている。
 医者が立ち止まった。大尉もつられて足を止めた。
 鳥の鳴き声ではない何かの音がした。
『待って』
『聞こえますか、あの辺りだ』
 医者がステッキで音がした方向を指した。池に棲む魚が撥ねたような音だ。続いてボコボコと沈んでいく音もした。
『音がしました。池の水です。水が誘うんです、このところ溺死者がいませんからな。やぶ医者殿』
『誰かが溺れているんじゃないですか、大尉殿。呻き声がします』
『赤い月に鬱陶しい霧。不気味だ。まだ聞こえますか』
『いや、大尉殿、声がしなくなった』
『先を急ぎましょう』
 不安に駆られた二人はそそくさとその場を立ち去った。
 ◆
 一夜明けて、町の広場では今日も子供たちが遊んでいた。いつもと変わらぬ光景だが、一つだけ異なっていたことがある。昨夜、マリーは男の子の迎えに来なかった。心配したゲーテは家に連れて帰った。母親が食事を与えて自分の子供と一緒に寝かせた。ゲーテは朝になってマリーの家に行ってみたが、まだ帰ってはいなかった。
 何も知らない子供たちは竹馬に跨ったり、追いかけっこで遊んでいた。
『回る、回るバラの花、回る、回るバラの花・・・』
 そこへ一人の子が駆け込んできた。
『ゲーテ、マリーが』
 やはり何かあったのだろうか、誰もが顔を見合わせて足を止めた。その子がマリーの子供に近づいた。
『知らないの? みんな見に行ってるよ。お前のママは死んだんだって』
 マリーの子供は右手に掴んだ竹馬を放そうとしない。
『どこにいるの?』
 ゲーテが訊いた。
『池の側だってさ』
 みんなが一斉に駆け出した。ゲーテはカールを抱いているので走れない。おっかなびっくり振り返った。
『ホップ、ホップ、ホップ』
 マリーの子供は竹馬に跨ってぐるぐる回り続けていた。
『ホップ、ホップ、ホップ、ホップ・・・』
 ◆



 アルテハイムの町(2)


 語り終えたクラウスお爺さんはビールを飲み干すとソファに背中をあずけた。話し疲れた様子だった。すでに時計は午後の一時を指していた。お爺さんの話は休憩を挟んで三時間にも及んだ。お爺さんの話を、私に分るように英語に訳してくれたルルもさすがに疲れた表情をしていた。
「子供がいたんだ、マリーの子が」
 ルルがお爺さんの言葉を通訳した。
「わしよりも五つくらい年上だった。町の人たちは両親が死んで心配していたんだが、その子は親に似ずしっかり者で、大工の親方になった」
「それは良かったですね」
 両親が亡くなったあと、広場で無邪気に遊んでいた子供のことだ。貧困、精神の病い、そして妻殺し。暗い悲しい話だったが、残された子供が成長して腕のいい大工になったと聞いて救われる思いがした。
「マリーの子供が大工の修業に出たとき、カールも後を追うようにしてシュツットガルトに行った」
 カールとは広場の遊び仲間で、その当時は小さくてお姉さんのゲーテの腕に抱かれていた子供のことだ。
「父親のエーリッヒが学校の先生をしていたこともあって、カールは良く勉強ができた。町一番の優等生と評判だった。だが、その当時はナチスが台頭してきた時期だった。そこで、迫害から逃れるために、父親はカールの名前をスペイン系の呼び方、カルロスに変えた。その後、カルロスはシュツットガルトの大学に進んだそうだ」
 私は心臓が飛び出しそうになった。私の祖父の名はカルロスである。
「祖父の名前もカルロスでした」
「カルロスは、その後どうなったの?」
 ルルも驚きを隠せない。
「エーリッヒの一家は戦時中に町を離れてしまった。どうなったかは聞いていない。わしが知っているのはそこまでだ。」
 アルテハイム出身のカルロスという名前の子供がいた。そして、祖父のカルロスはアルテハイムを写した数枚の写真、建築中のバウハウスの家や、兵士が溺れた池の写真まで持っていた。これは単なる偶然の一致だろうか。私には偶然とは思えなかった。
「ハヤトのお爺さんが、今の話に出てきたカールだったのよ、きっと」
「そうだと思う」
 カールという子供が祖父カルロスと同一人物である可能性は限りなく高い。
 1928年生まれの祖父が少年時代を過ごしたのが40年代、その後、シュツットガルトの大学に進学し、日本に留学したとすると時代的には合致している。カール改めカルロスが私の祖父であることは確実だ。アルテハイムを写した写真を撮ったのは、カールではなく、父親のエーリッヒ、すなわち曽祖父ではないだろうか。
 お爺さんのおかげで写真の謎は解決した。
 しかし、ルルのお爺さんからこれ以上聞き出すのは難しかった。昔のことで記憶が薄れているし、兵士が死んだという事件はあまりにも暗い出来事だった。根掘り葉掘り、町の人が触れられたくない過去を聞き出すのは控えた方がいいだろう。
 私は池の畔で遭遇した怖い体験を話そうかどうしようかと迷った。もし、これまでに同じような経験をした人があれば、今でも、池には近づくなと話題になっていてもおかしくはない。となると、池の水面が波立ったことや人声が聞こえたのは、旅人である私だけに降りかかった出来事だったかもしれない。
 昼食を勧められたのでいただくことにした。ケーゼシュベッチェルという、パスタを茹でてチーズで和えた一品とポテトフライだった。
 私はお爺さんにお礼を言い、通訳してくれたルルにも、ありがとうと言った。
「こんなに英語を喋ったのは久し振りよ。初めて聞いたことばっかりだったから英語に直すのが大変だったところもあった」
 ルルはミネラルウォーターを飲んだ。お爺さんは相変わらず黒ビールだ。
「酒場のシーンで鍵盤楽器って言ったでしょう。考えたらピアノでもよかったんだ。ドイツ語ではグラビア、英語ではピアノだから」
「そこまで気が付かなかった」
「グラビアを英語風に発音するとクライバーみたいになる」
 帰りはルルがバス停まで送ってくれることになった。今日はトラックではなく父親のワーゲンだ。トラックのときよりはかなり慎重な運転だった。
 話題はサッカーの話になった。来月にはワールドカップ2018・ロシア大会が開催される。ドイツと日本チームは別のグループに入っているので直接の対戦はない。お互いのチームを応援しようということになった。
 話しているうちにバス停が見えてきた。
「お爺さんに話を聞けてよかった。というか、バスを降りて困っていたときにルルに遇えたことが一番ラッキーだった」
「カールが、カルロスが日本へ行って、日本人と結婚したからハヤトーが生まれた。そうしてハヤトーがアルテハイムに来た。私たちにはそういう繫がりがあったんだね」
 そこで私はふと思った。
 私のお爺さんカルロスと、ルルのお爺さんは一緒に遊んだ仲だった。何十年経って、こうして私とルルが会ったのも生まれる前から定められた運命だったかもしれない。
 ここで別れるのかと思うと寂しくなった。
 私はルルの写真を撮った。
「今度はルルが日本に来て」
「行くわ、きっと、ハヤトー」
 名刺を渡した。裏には住所を英語で書いてある。
「ところで、ルルが私の名前をハヤトーと引き伸ばすのは何か理由があるの」
「ワルキューレの掛け声よ。ワルキューレたちがハヤトー、ハヤトーって叫んでいる」
 ハヤトーは、ワーグナーのワルキューレの騎行から類推したようだ。
「ワルキューレは戦死した死者を天上の世界に連れていって蘇らせるのよ」
 死者を蘇らせる・・・
 池で溺れて死んだ兵士も生き返らせるとしたら・・・
 ルルはワルキューレなのか、私はそう訊いてみたくなった。
 


 「小説 ヴォツェック」終わり


 難解なオペラを歌詞と情景描写だけで小説にしたので、ますます理解しにくいものになったかもしれません。ここまで、お読みいただきありがとうございました。


 *小説に登場したルルは、アルバン・ベルク作 オペラ「ルル」からとりました。このオペラはかなり過激で、ルルは男性関係が派手で、「私はSEXが好き」と言っているような作品です。