短編小説 「アカボシゴマダラ」

 短編小説を書きましたのでこのブログに投稿します。よろしくお願いします。なお、短編集なので次の作品も準備中です。



 短編集 その一 「アカボシゴマダラ」


 横浜市P区にある東中町第二公園の周辺は、かつては鬱蒼とした林が広がっていたそうだ。もちろん私の生まれる遥か以前のことだ。
 私は朝の散歩で第二公園に向かっていた。中学校を右手に見て緩やかな坂を上った。その先に公園がある。公園へと続く道の両側は畑が広がっていて、モンシロチョウがキャベツの上を飛びまわっていた。菜の花の周囲にも飛んでいる。いかにも春らしい光景だ。早いもので、来週からはゴールデンウイークが始まる。
 公園に着いてゲートボール場の脇をぐるりと回り、アカガシの木の下を抜けた。この公園では、ヤマザクラ、エゴノキなどそれぞれの樹木に名前を書いた札が付いている。
 それから私はベンチに座った。
 座って間もなく視界の隅にモンシロチョウがふわふわと舞い降りてくるのをとらえた。桜の木に止まったようだ。だが、モンシロチョウにしてはどこか飛び方が違うと思った。周囲を警戒しているかのような様子だった。
 私は気になってベンチから立ち上がった。この辺だったなと、桜の木の周りを探した。しかし、桜の木には姿が見えなかったので、どこかへ飛び去ったのだろうと思った。私はまたベンチに戻ろうとした。
「どうしました」
「あ、どうも」
 声を掛けてきたのは堀池さんという人だった。散歩するのが同じ時間帯らしく、何度か遇ううちに親しくなった。とはいえ、彼は年のころは六十代くらいである。天気の話をするだけの付き合いでしかない。堀池さんはジーンズに黒いジャンパーを着ている。いつも同じような恰好なので、あまり服装には気を使わないタイプらしい。
「いま、そこにモンシロチョウが飛んできたんですが、何だか飛び方が変わってたので、見に来たんです」
「どんなふうに飛んでましたか」
「ふわふわと舞い降りてきたように見えました」
「はああ、ふわふわ・・・滑空するように飛んでいませんでしたか」
 私は頷いた。滑空とはうまい表現だ。言われてみれば、ススーッと滑る感じだった。
「では、それは、おそらく、アカボシゴマダラです」
「アカボシゴマダラ?」
 聞きなれないチョウだ、アカボシゴマダラとは。だが、そこで私は疑問に思った。
「でも、真っ白でしたよ、だからモンシロチョウだと思いました」
 アカボシゴマダラというにしては、そのチョウはアカくはないし、ゴマ模様でもなく白っぽく見えた。遠目だったからかもしれない。近くに寄ればアカいホシが見えるのだろう。
「エノキを探してみましょう」
 エノキにいるらしい。堀池さんが先になって音を立てないようにゆっくり、ゆっくり近づいた。日陰にあるエノキの前で止まった。幹の中ほどを指している。
「あそこに止まってます」
 堀池さんが指さす方向を見た。確かに白いチョウが、翅を立てて止まっている。近くで見ているのだが、それでも、私にはモンシロチョウのようにしか見えない。
「エノキが食草、つまり幼虫のエサなんです」
 それでエノキに止まったのだ。
「もう少し前へ行きましょう」
「逃げませんか、近づいても」
「チョウと友達になるつもりでいてください。そうすれば逃げません」
 私は一歩進み、また一歩と近づいた。
 チョウまでは二メートルもない。ここまで接近してみると、モンシロチョウとは形も色も異なっているのが分かった。アカボシゴマダラはモンシロチョウよりは一回り大きい。色はモンシロチョウのように白いのだが、翅の縁は黒い線が太くてしっかりしている。
「これがアカボシゴマダラですか」
 そう言われても名前とは似ても似つかない。大きめのモンシロチョウだ。
「そう、ただし、これはアカボシゴマダラの春型です」
「春型? チョウにも春とか夏の違いがあるんですか」
「春型と夏型はアゲハチョウの種類でも見られます。アゲハだと、春に飛ぶのは夏型に比べてやや小型です。アカボシゴマダラは春型と夏型とでかなり姿が変わる種類です。春型はモンシロチョウのように白いのですが、夏に現れるのはもっと黒い部分が多くなり、翅の黒いスジがはっきりとしてきます。それに、後ろ翅に赤いホシが見られるようになります。それでアカボシゴマダラと呼ばれているのです」
 堀池さんが春型と夏型の違いを説明してくれた。
「このアカボシゴマダラの春型は白化とも言って、めったにみられない貴重な姿です」
 そのとき、アカボシゴマダラが翅を広げた。
 翅の表側が見えている。前の翅は黒色のインクで線を引いたようになっていて、周囲はしっかり縁取りがしてある。
「夏型になると、全体的に黒の部分が増えます。後ろの翅に赤い斑点が現れるのですが、春型にはそれはありません」
 私はスマホのカメラで写真を撮った。カメラを持った腕をグンと伸ばしてできるだけ近くで写してみた。その間にもアカボシゴマダラは翅を開いたり閉じたりしている。側で見て分ったのだが嘴が黄色だった。
 警戒していないようなので、さらに近寄ったら、アカボシゴマダラは幹を離れてふわりと飛び去った。
「ああ、行ってしまったわ」
 空を見上げた。
 またベンチに戻って座った。
 堀池さんがスマホを取りだし、
「去年の夏に撮ったアカボシゴマダラです」
 と言って見せてくれた。夏に現れるアカボシゴマダラは黒い部分が多く、後ろの翅には赤い斑紋が五つあった。そのうちの四つは赤い斑紋の中が黒い丸型になっていた。確かにアカいホシである。ゴマダラというのは翅の白黒文様を指しているのであろう。
「なるほど、これなら名前の通りですね」
 私は写真を見て納得した。
「アカボシゴマダラは実は日本では奄美大島にしか生息していないのです」
「奄美大島ですか、それがどうしてこの横浜にいるんですか」
「それには深いわけがありまして・・・」
 そう前置きして堀池さんが話し始めた。
「1998年のことなのですが、昆虫マニアが藤沢市の公園にオスメス一対のアカボシゴマダラを放ったのです。それ以前に埼玉で目撃されたらしいですが、これは居つかなかったようです。ところが藤沢市に放たれた番いは繁殖して、たちどころに数が増えました。現在では関東地方を中心にすっかり定着してしまいました」
 しまいましたという言い方からすると、あまり好ましい状況ではなさそうでである。
「奄美大島からチョウを持ってきたなんて」
「どうやら関東地方で見られるのは中国の福建省のものではないかと言われています。いずれにしても、もともとそこの地域にいないチョウを持ち込んで放ったのは良いことではありません」
「そうですよね、生態系にも良くないですよね」
「おっしゃる通りです。外来種の魚とか亀を放流して川や湖の生態系に悪影響があったというのは話題になりますが、それと同じことです。しかも、昆虫は小さくてあまり目立たないから気が付かないでしょう」
 なるほど気が付かないうちにこんな近くで生態系の破壊につながる事態が起こっていたのだ。
「アカボシゴマダラは南方系の昆虫なので、それが関東地方に定着したというのは温暖化も影響しています」
「ええ、夏、暑すぎです。横浜でも35度は当たり前ですから、奄美大島のチョウも増えてしまうわけですね」
「そう思うのが普通ですが、実は夏の暑さよりは、冬が寒くないことの方が影響が大きいんです」
「冬の寒さ・・・いえ、寒くないってことですか」
「沖縄や奄美では氷点下になる日はありませんよね。南方系の昆虫にとっては、寒い関東地方で越冬するのが一大事なのです」
「昆虫はどうやって冬を越すのですか」
「卵、幼虫、サナギ、成虫のいずれかで越冬します。アカボシゴマダラは幼虫で冬を越します。なので、さっき見た春型のチョウは、去年の十一月ごろからずっと幼虫で冬を過ごしてきたわけです」
「長生きなんですね」
「樹上で葉っぱの裏に身を隠し、寒さを乗り越えているんです。幼虫のまま、四か月くらいはじっと辛抱しているんですから」
 真冬にそんな長い間、屋外で生き延びるのは何とも大変なことだ。犬や猫でさえ、小屋かさもなければ室内で過ごすというのに。
「この辺りも、昔に比べれば霜が降りるのも減りました。氷も張らなくなった。子供の頃、今から五十年も前のことですが、その頃はもっと寒かった。それが、冬が暖かくなったので、南方系のアカボシゴマダラも関東地方で冬を越せるのです」
「アカボシゴマダラにとっては快適な環境になったんですね」
「冬はね・・・ところが今度は夏の暑さの方が大敵になってしまいました。今では関東地方の方が沖縄よりも暑いくらいです。40度に達することもあるでしょう。そうなると、昆虫は困ります」
「単純に暑い方がいいんだと思っていました。夏休みには昆虫採集するし」
「昆虫は暑さが苦手です。変温動物だし、体の構造が単純なので体温調節をするのが難しいのです」
「それじゃあ、気温が40度になったら体温も上昇してしまうんですか」
「人間は夏でも冬でも体温を一定に保つ機能があります。昆虫にはそれがない。そこで、昆虫は真夏は休眠することがあるんです」
「冬眠ではなくて、真夏に休んでいる・・・」
「その方法の一つは真夏には敢えて発生しないことです。アゲハチョウなどでは真夏に一時的に姿が見られなくことがあります。二つ目は日陰に隠れる方法です。早朝と夕方は飛び回り日中になると木陰で休息するわけです。昆虫が活動しやすいのは25度から30度くらいなんです」
「夏が苦手だなんて知らなかった」
 真夏には私も暑さを避けて散歩は早朝だし、出掛けるときは日焼け止めを塗り、日傘が欠かせない。
 夏に休まなければならないとは、地球温暖化のために環境が変わり、昆虫たちが棲みにくくなってしまったようだ。それも人間の活動が招いた結果だ。
「あれを・・・」
 堀池さんが指差した。その方向にはアカボシゴマダラ春型がヒラヒラと舞い降りてくるのが見えた。その近くには犬の散歩をする人、ジョギングしている人もいる。
「お話を聞いてよく分かったのですが、飛び方がモンシロチョウとは違うし、何だか妖しげな感じです」
「そうでしょう。やはり、アカボシゴマダラはこの地域では新参者だから、周囲を気にしているんです。本当は自分はここにいてはいけないんだと思っているのかもしれません」
 アカボシゴマダラが飛んでいることに公園内を散歩する人は気が付かない。たとえ見えているとしても、春になって暖かいからチョウチョウが出てきたくらいにしか思っていないのだろう。
 堀池さんの話を聞くまでは、私もその一人だった。
 そして、まさか、こんな近くに温暖化の兆候が現れているという、そのことに誰も気が付かない。
 私もその一人かもしれない。知らないうちに、どこかで地球温暖化に加担している人間の一人なのだ。


 それから一か月後、連休の終わったある日、東中町第二公園で堀池さんに逢った。五月とは思えないくらい暑い日だった。
「こんにちは」
「暖かいですね、一気に夏が来たみたいな陽気です」
 堀池さんはいつも着ていた黒いジャンパーではなく、薄いブルーのジャンパーだった。春らしい、というよりは夏っぽいスタイルだ。
「堀池さん、そのジャンパー、薄いブルーが初夏らしくていいですよ」
 私は堀池さんの薄手のジャンパーを見て言った。
「この間、アカボシゴマダラは春型は白くて、夏には本来の黒みがかってくると言ってましたよね。でも、人はその逆に、春には淡い色の服を着るし、もっと暑くなったらジャンパーも脱いで、白いシャツ姿になりますよね」
 すると堀池さんはジャンパーの袖を捲って言った。
「私は昆虫を探しにあちこち出歩くので、日焼けして黒くなります」